小説 川崎サイト

 

最後の切り札


「切り札、隠し球。これは切ればもう切り札ではなくなり、隠し球も見せてしまえばそれまでよ」
「はいそれまでよですね」
「だから切り札は切れず、隠し球は隠し通さんといけん」
「じゃ、一生使えない」
「いや、ここ一番で使う」
「その、ここが問題ですねえ。まだそのときじゃなかったり。それに一生じゃ、若い頃に使うと保険が切れたようになりますしね」
「また作ればいい」
「それは作るものですか。それとも勝手に身につくものですか。それとも最初からあるものですか」
「まあ、その分野は、シーンにもよるが、そんなもの、使わなくてもやっていける方がいい」
「あるシーンというのは大事ですねえ。これは身に付けたものではなく、一つのことを隠すことで、手の内を隠すことになりますから、情報を与えないので、都合がいいかもしれません」
「まあ、切り札や隠し球はそういうときに当てはまるのだろうねえ」
「はい」
「それよりも、まだ切り札の使い方がある。これはやっておる人も結構いる。ソースのようなものかな」
「醤油ではなくソース」
「情報もそうじゃが、教養のようなものもな」
「教養」
「これは身に付けたものだが、それをずっと隠し続けておる。あることを学び続けておるのじゃが、口外しない」
「虎の巻を暗記しているとか」
「何かについての技術書ではなく、もっと全体的なこと」
「素養のようなものですか」
「そうじゃ。そういうのが切り札、隠し球になることもある。これは隠しておるのではなく、黙っておるだけ。だから切り札なのじゃが、どの札か分からん。何かに対しての切り札ではないからじゃ」
「たとえば」
「西洋哲学者なのに、隠れて東洋哲学を学んでおったりしてな。本当は専門家並みの知識があったりとかな。ボクサーでサウスポー。左利きじゃが、実は右のパンチの方が強かったりして」
「たとえが哲学ではあまり役に立ちませんが、そんな勝負の場じゃないでしょ」
「これは何かの専門家裸足のものを持っておるのに、それを一切出さない、見せないとかじゃ」
「でも、そういう知識なりを身に付けておく必要がありますねえ。ローマと同じで」
「そう、一日でならず」
「三日以上」
「もっとじゃ」
「失礼しました」
「または博打打ちが使う手で、切り札があると見せかける術もある」
「世間にはいますねえ。歩けないほどの高下駄を履いた人」
「これは高転びする以前の問題で、高くまで上がれんだろ。まあ、普通に勝負して、普通に負けるのなら、負けた方がいい」
「しかし、誰にも知られずにものすごいものを会得して、それをじっと隠しているのもいいですねえ。それを使わない場合、負けますが。これは余裕ですねえ」
「それは最初に言った。切り札を使うと、もう二度と使えない」
「じゃ、ぞれを温存させたままやるのですね」
「そして一生使わないまま終わってもいい」
「有り難うございました。凄い極意を教えていただきました」
「愚か者め、そんなこと誰でもやっておるわい」
「ああそうでしたか」
 
   了




2019年2月14日

小説 川崎サイト