小説 川崎サイト

 

尻割草


 北村はまだ寒いが春を感じた。寒さが引いたあたりで咲き始める野の花を見たため。
 春の草花を買ってきて植えたのでも、種を買ってきて育てたのではない。野生。野育ちの植物で、それは売られていない。
 雪割草などがそれにふさわしい、読んで字の通り。しかし北村が住む一帯にはこの草花はない。もっともっと北へ行かなければ見ることはできない。雪を割って出て来るというあたりが、いかにもだ。
 さて、春を感じたので、北村も蠢き始めだした。しかし、これは目的があってのことではなく、少し意欲的になっただけ。
 何かをやってみたいだけでは心許ない。なぜなら何かなので、何かの中身は空虚。だからエネルギーだけは湧いている。これは何でもいいから使うことだろう。特にやることがないのなら空蒸かしのようなもの。
 そういう弱い根拠で外に出たのだが、やはりまだ寒い。寒いが意欲は温まっている。困ったものだ。
 その意欲の降り先は、何か新しいことをやること。これなら正常なエネルギー発散となり、有意な行為となる。ただの暇潰しで、あらぬ事をやるよりも。
 正常なこと。まともなこと。これは社会的に見ての話だが、それが大事。
 しかしそんなネタは既に今までにも考え倒しており、あるのなら、とっくの昔にやっている。
 北村は何をしても長続きしない。あるところで辞めてしまう。これは仕事でも趣味でも。
 その理由は先が見えてしまうため。懸命にやっても自分の力では限界があり、それが見えてしまう。やる前は見えていないが、しばらくすると見えてくる。それで長く続けても無駄に思え、別のものに乗り換える。しかし、そこでも同じパターンを踏んでしまう。そういうことを何度もやっていると、これは何をしても同じではないかと思い出す。どうせ途中で尻を割るのだから、尻が持たない。雪割草ではなく、私は尻割草かと思うようになる。
 そのため、今年も春を待つ尻割草状態だが、まだ割るどころか、何もしていないのだから、割りようがない。
 毎回尻を割り続けていると、割れ方や、割り方のコツを会得するようで、予想できるし、回避できるようになる。しかし回避そのものが尻を割るということ。逃げるわけだから。
 それに尻というのは最初から割れている。そうでないと歩けないだろうし、足も開かない。トイレで股も割れない。洋式なら別だが、それ以前に歩けないだろう。
 さて困ったものだと思いながらも北村はまだ寒い中、市街地を歩いている。これはやることが何もないときの散歩。目的地はない。しかし目的はある。部屋でくすぶっているよりも、身体を動かしている方がまし。それに運動不足なので、少しは歩いた方がいい。それだけのメンテナンス系が目的。しかしそれでは頼りない。
 こういうとき、歩道を歩いていると、見知らぬ人と偶然ぶつかり、それがきっかけで長編ドラマが始まる。
 しかし、そんなドラマのようなことは起こらないが、人が行き交う場所というのは誰と遭遇するのかは分からない。偶然が発生しやすい。それは人が出ているところに出るためだろう。だが北村は散歩中の出来事から、凄い世界へ入って行ったという経験はない。散歩は散歩のまま。交通事故にでも遭わない限り、出るときと戻ったときとの差はないが、部屋に入ったとき、少しは新鮮な気になる。間を置くためだろう。
 その日も北村は散歩中、キョロキョロしていた。何か刺激物がないものかと見ているのだ。また、新たなことをするためのヒントがあるかもしれない。
 これも偶然の遭遇で、偶然見たものがきっかけになり、これだと叫ぶようなものがあるかもしれない。
 しかし、見付けたとしても、どうせ尻を割るのだが。
 
   了
 

 


2019年2月25日

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