小説 川崎サイト

 

楽しみにしていること


 一寸した気がかりがあって田治見は落ち着かない。大したことでなく日常範囲内。それがこじれて大変なことになる可能性は少ないが、どう転ぶかはやってみないと分からない。ほぼ大丈夫なのだが、安心しきれない。それらの多くは人と絡んでいる。一寸した交渉事だが、毎回順調に行っている。しかし、そうではないときもある。そちらの方が珍しいのだが、それでも大したことにはならない。
 だが、思っていることと違う反応が返ってくる可能性は毎回ある。それですんなり行かないわけではないが、少しだけ面倒な手間が加わる。少しなので大きな影響はないが。
 そういうのが済むまで、楽しみごとは休んでいる。これは好きなことで、しなくてもいいことだが、趣味のようなもの。ここでは好きなだけ我が儘が通る。そして楽しい。だが、面倒ごとが起こっていないときに限る。そんなことをしている場合ではないし、そのタイミングでは楽しめない。心ゆくまで。
 さて、その気がかりな用件だが、簡単に済んだ。前回と同じで、すんなりといった。ずっとその状態が続いているので、もう気にする必要はないのだろう。
 これで気がかりがなくなったので、楽しみごとに没頭しようとしたのだが、その気にならない。もう手放しで楽しめるのだが、やりたいという気持ちが静まっている。これは何だろう。
 あれが終われば、これをして楽しもうと、ずっと待っている間の方が、その気満々だった。
 ということは、そんな呑気なことをしている場合かというようなときにやった方がいいのかもしれない。
 楽しいことを早くやりたいと望んでいたときに、さっとやればどうなるか。これは、気がかりがあるので、安心してできないはず。だから、終わるまで待つ。それが今までの田治見のパターン。そして終わってからは急に気が静まるのも同じ。
 結局気がかりが消えただけで、ほっとし。もうそれだけでも満足。そのことが楽しいのだろうか。だから、そのあと楽しいことをしなくても、もう十分楽しいのかもしれない。
 人は気の生き物で、気持ちの問題が大きい。その気になるタイミングも状況次第。
 気持ちは自然に発生する。人格のようなものも、結構曖昧で揺れているものかもしれない。
 
   了


2019年4月15日

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