小説 川崎サイト

 

肉眼鏡


 藤田は眼鏡を拭いた。するとよく見えるようになった。これはよくやることだが、急に視力がよくなったような気持ちになる。
 長く拭いていなくても、実用上困らない。見えないものは綺麗なレンズでも見えない。だから、支障はないが、クリアに見えると、すっきりする。これは美しさだろう。実用上、美は関係しない。別に美しいものを見なくてもかまわないのだが、見ると気持ちがいい。ただ、眼鏡を拭くだけで美が得られるのなら、これはお手軽だ。
 視力がよくなる。ものが綺麗に見える。それだけで美的鑑賞になる。だから美しい絵や写真や花や風景などを見なくても、何でもないテーブル上のものや、本の中の活字でもよい。眼鏡を拭くだけで美的鑑賞ができる。
 ではそれまでどんな眼鏡を掛けていたのだろう。余程汚れて曇っていたのだろうか。そんなあからさまな汚れなら、すぐに分かるので、すぐに拭くだろう。
 だから汚れているのに気付かないで、拭き、結果綺麗に見えたとすれば、やはり曇っていたのだ。拭く前までは、まだそれほどのことではないと思っていたのだが、一寸手持ち無沙汰で、手が空いたとき、拭いてみると、そういう結果になると、これは得した気分。
 ただ美しいものはすぐに落ち着いてきて、普通になる。見慣れたものになり、もう美しいという気持ちは消える。継続時間が短い。
 あ、綺麗だ。と思ったときがピークで、後はそんなことに驚いている場合ではないので、すぐに美は引いていく。
 クリアな眼鏡なら、どんなものでも美しく見えるかどうかは問題。醜いものはより鮮明に見える。あまり細かいところまで見たくないようなものなどは、ぼんやりと見えていた方がいい。見たくないためだ。
 しかし、クリアではない眼鏡でも、ある程度は見えている。ほぼ同じものを見ている。だから、綺麗なものを見るときは眼鏡を拭いた方が効果的だということだろう。
 それとは別に、日常がクリアに見えるというのは美しいとは別に、目の機能が回復した晴れ晴れしさがいいのだろう。いつもの風景でも新鮮に見えると、これは何か元気な感じがする。高精細のモニターに買い換えたようなものだ。
 要するに気分の問題。
 曇った眼鏡よりも、裸眼で見ているほうが明るかったりする。汚れすぎてサングラスになっているわけではないが、裸眼で見るほうがクリアさは眼鏡なしでは補えないが、明るさは別だ。
 裸眼でも見えなくはないが、文字が読めなかったりするし、顔が判別しにくかったりする。
 まあ、人は顔だけを見て判断するのではなく、その人の髪型とか、服装とか、そういうのも助けになるので、顔そのものがぼんやりしていても、何となく分かるもの。当然それを見ている場所とかでも。これでかなり限定されたりする。また相手の顔がよく見えない方が、顔色を窺う必要がない。
 町内の人と、まったく別の場所ですれ違ったとき、目礼しても、挨拶が返って来ないときがある。誰だか分からないのだろう。
 また、かなり近付けば、やっと気付いてくれる人もいる。
 欲に目が眩んだり、曇ったりすることもあるが、視力の変化ではないだろう。眼鏡とは関係はないが、裸眼でもフィルターがかかるもの。何かを通して見ているのだ。これを色眼鏡で見ると言い、いけないこととされているが、どんな人でも色眼鏡でものを見るものだ。表には出さなくても、腹の中で思っている。
 これは肉眼鏡で、生まれたときからずっと掛けていたりする。その肉眼鏡は磨くこともできる。
 この肉眼鏡、たまに剥がれることがある。目からうろこが落ちるように。しかしうろこはもの凄い枚数あるようだ。
 そんなことを思いながら藤田は眼鏡を外した。当然肉眼鏡は外せない。

 

   了
 
 
 


2019年4月21日

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