小説 川崎サイト

 

数奇に走る


 沼田は少し前のものを手にした。偶然それを手にしたのだが、まだ今の時代でも使える。それほど古くはないが、最近のものではないので、それなりの実用性しかない。未来を行くようなものではなく、目新しさはないし、可能性も感じられない。
 ある時代で終わってしまったものではないが、一世代か二世代前の世界では新しかったのだろう。その新しさも昔の新しさで、その新しさの延長上に今はない。以前考えられていた新しさとは違う。
 沼田はそれに触れると、妙に落ち着く。これは親の世代ほどには古くはないし、年の離れた兄弟ほどには近くもない。その中間ぐらいだろうか。だから親の世代から見ると、もの凄く新しいもので、新時代のものだったに違いない。
 小学生の頃、大学生が使っていたようなものだろうか。沼田をそれを見た覚えがある。子供にとって大学生は既に大人。体格もそうだろう。それに憧れのようなものを抱いていたことは確か。
 ただ、沼田が大人になってからは、もうそんなものを使っている大学生はいなかった。時代と共に消えた。
 沼田にとり、それは来たるべき未来のものだったのだがその未来に来たとき、それはもう使われていなかった。あることはあるが、古いものとして、見向きもされなかったのだろう。
 それで幻の未来になったことを覚えているが、若い頃ほど新しいものに憧れるもの。そうでないと先々のことを先取りできない。準備の意味もある。取り残される不安感もある。
 そして未来は何処へ行ったのだろう。その未来の一つ一つを通過してきたのだが、何やら頼りなさげな未来になっていた。その先、まだまだ未来は続いているのだが、もう大したことは来ないような未来だった。
 先々何が起こるか分からない。悪いことは来て欲しくないが、もの凄い未来が来るかもしれない。それは悪い側だ。そんなものに夢はないので、敢えて思わないようにしている。
 それよりも、一昔前のものがどうも気になる。その時代の考え方や、そこで使われていたものや、システム。それらは沼田が子供の頃に見ていたもので、それこそ大学生のお兄さん達の世界。
 当然年寄りになってしまうと、大学生などを見ても子供か孫の世代なので、可愛いものだが。
 それで沼田は懐古趣味に走ったわけではないが、それほど古くなくても、一つか二つほど前のものに興味を持つようになる。それは色々なジャンルがあり、色々な分野がある。もう誰も読まなくなった日本文学全集とかが二束三文で古本屋にある。当時は有名だったのだろうが、今読むと古くさい。当時は新鋭作家で、時代の最先端を走っていたのだろう。そういう未来は来なかったが。
 というようなことは、単なる骨董趣味に近い。だが懐古趣味にしては意外と新鮮で、来なかった未来にもう一度触れることができる。
 ある意味、これは数奇かもしれない。
 
   了


 


2019年5月23日

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