小説 川崎サイト

 

何でもいい人よくない人


 何でもいい人は、何でもしてしまう。何でもでは良くない人は良いことしかしない。両者とも、そんな極端な人はいないだろうが。
 何でもいい人はこだわりがないのか、または無知なのか、価値の強弱をあまり付けない人かもしれない。
 外食のとき、何を食べようかと決める。そうでないと店には入れない。すると外食にならない。外食に出たのだから、店に入る必要がある。屋台でもいいし、買い食いでもいいが。
 ところが何を食べるのかが決まらない。あれも良いし、これもいいしで迷うのならいいのだが、これといった店屋が見付からない。店を食べるわけではないが、食べたいと思う料理が見付からない。
 そんなとき、もう何でもいいか。となる。これは諦めのようなもの。決まらなかったし、また決めたいと思うものがなかった。だから、もう何でもいい。とにかく適当な店に入ろう。それで入りやすそうな店構えの店に入る。
 これで一応外食という目的は果たせた。その中身は問題ではない。食べたことが大事。
 もし何でも良くない人なら、見付からなければ、また思い付かなければ外食という目的を果たせないで帰ることになる。それでは戻ってから腹が減るので、弁当でも買って帰る。
 何でもいいからといっていた人は少なくても外食をした。
 当然、そういう人は店に入っても、次はメニュー。店屋は何とか無作為に選べたが、今度は何を食べるのかの枝分かれが待っている。一品しか置いていない店なら別だが、気に入ったものを選ぶ必要がある。または食べたいものを。
 ここでもまたそれがなかったりすると、何でもいいか、となる。今このタイミングで食べたいと思えるものがメニューにないからとて、出るわけにはいかない。その前に水とかお手拭きぐらいは出ているだろう。それで手を拭き、水だけ飲んで出るわけにはいかない。
 何でもいい人は決して何でもいいわけではない。何でもいいと思い、選んだものが気に入らない場合も当然ある。しかし、食べられるものなら、それを食べるしかない。また、気に入らないものだったとしても、気にしないで食べる。何でもいいからと適当な店にし、適当なものを注文したのだから、そこを問題にするとややこしくなる。つまり、スタート地点から見直さなければいけなくなる。
 選択の放置のようなものをしたわけなので、そこは覚悟しているはず。
 何でもいいと思っている人は、決して好みや主張や、スタイルがないわけではないのだが、それほど執着するほどの力が無いのだろう。大した違いはないと思ったり、どちらを選んでも似たようなものとか。
 自己主張が少なく、弱い。これは面倒なためだろう。しかし、そういう人でもものはしっかりと見ている。しかもそれほど偏りのない。
 だが、何でもいい人と、何でもでは駄目だというような極端な人はいない。結構混ざり合い、比率も変わったりする。またものによっては執着し、ものによっては無頓着、なども当然ある。
 そういう流れの末に今の自分があるのだろう。その先っぽに。
 
   了



 


2019年5月24日

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