小説 川崎サイト

 

八百万の神々


 捨てる神あらば拾う神あり。神は人を捨てることもあるのだろう。神は我らを見放した、などもある。拾う神は分かる。誰からも見向きもされない人をそっと神が拾ってくれる。その人を救ってくれる。
 人から見ると、人が捨てる神もあるし、人が拾う神もある。どちらにしても神を捨てたりすればバチが当たるだろう。ただ、日本の神は数が多く、そのキャラ性は多彩。悪い神もおれば、貧乏臭い神もいる。人のタイプほど、また災害タイプ分の神もいるはず。
 つまり人と自然のタイプ別に、ほぼ網羅するほど取りそろっている。
 だから捨てる神、人を見捨てる神がいてもおかしくはない。そしてこのときの神は人だろう。捨てる人もいるが、拾ってくれる人もいる。
 捨てられて困っているとき神が現れる。捨てられていないときはその神も現れないかもしれない。その組み合わせ、偶然性が神秘的で、神がかっている。何という絶妙のタイミングかと。
 人の動きや自然界の動き、それを神という名で語っているのだろうか。
 絶妙のタイミングは、神業と呼ばれている。また飛び抜けていいものとかも。人の技とは思えないほど抜け出ているためだ。まあ、人は人なので、その範囲内の話だが。物や機械も、物理的な、その範囲内の違いで、神秘的な力が加わっているわけではない。
 あるとすれば、タイミングだろう。そしてその多くは偶然。神を見るとすれば、そこだろう。
 するとこれは宗教とは違ってくる。万物に神が宿るとなると、ベタベタになる。もう神だらけで、そこまで多いと、神が神でなくなるほど薄いものになる。
 たとえば一発技の神とか。あるポイントだけに表れる神とか。こちらは専門職で、しかもピンポイントだと、そのことしか知らない神だ。その神と出合える人など限られており、一生出合わないほうが多い。
 
   了

 


 


2019年7月5日

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