小説 川崎サイト

 

夏の里山


 ひまわりが暑苦しく咲き、それが終わりがけか枯れかかっている。花びらの中心部、ひまわりハゲそのものだが、ガサガサしており痒そうだ。
 暑い中、殿山は里山歩きをしている。意外と街中よりも涼しいのは、空気がいいためかもしれない。エアコンなどの吹き出しがないこともあるが、木陰が多いためだろう。新緑の季節は終わったが、葉はまだ生き生きしており、まだまだ若葉だと言ってもいい。そしてその背景の青い空と入道雲。まさに真夏の風景。絵に描いたよりも絵になる。
 こういうのを見ていると風景画などは必要でなくなる。特に写実画は。残るとすれば、軽く書いた俳画とか、リアルではないが抽象画ではない、その間のような絵。より作者のイメージが形になって現れる。風景画というより、その人の心情だろう。
 富田がこんなところを歩いているのは、その目的もある。自分の画風を完成させたい。どんなタッチで描けばいいのかがまだ決まっていない。
 こういうのは人の絵を見てその影響で決まるのだが、風景画の場合、その物を見たほうが早いのではないかと思い付いたのだ。つまりお手本は自然の中にある。
 しかし、真夏の里山を見ていると、そんな絵のことなどを忘れ、目の前のことしか思わないようだ。またはそんな近くではなく逆にうんと遠いことなど。
 それで少し見晴らしのいいところで、日影のある場所に座り、里を見る。といってももう普通の町だ。藁葺き屋根の農家があるわけではなく、水車が回っているわけではない。田んぼだけは流石青々と稲がなびいており、これは昔のままだろう。田植えからしばらく立つので結構背が高くなっているが、もう少し伸びないと穂は付かないはず。だからただの草のようなもの。草原と言ってもいい。
「見立てる」
 まず、それを思い付いた。絵とは見立てなのだと。
 そして小さなスケッチブックを取り出し、色鉛筆でささっとスケッチした。
 細かいことを気にすると、神経質になりかねない。電線の数とか、電線についているコブとか、また家を書いても瓦の一枚一枚が気になると、その並び方が角度によって違うので、線として掴むのは大変。
 そういう画き方をするのなら、カメラで写した方が早い。一瞬で書き出してくれる。
 ではこの時代の絵画とは何だろうかと、殿山はまた絵のことを考え出した。それでいいのだ。それを考えるために来たのだから。
「単純化」
 それしかないと思うものの、何処まで省略すればいいのだろう。それでいて本質をくり抜いたもの。これは流石に難しい。加えるより減らす方が楽なはずだが、ただの略画なったりしそうだ。
 台風が近いのか、影響はまだなく、よく晴れているのだが、雲の流れが速い。こういうのを一時間ほど写生していると、雲の位置が変わるだろう。下絵のときと。
 この場合、どうするのだろう。それとたまに雲で日が隠れるときがある。すると光線状態も変わってくるし、日を受けているところと、日影になっているところとがあり、それが徐々に移動していたりする。地面を光が走るのか、影が走るのか、どちらだろう。実際には雲が走っている。
 こういうのは動画がふさわしいだろう。
 結局何も掴めなかったので、殿山は高いところから下り、田んぼの草原の中を抜けて、バス停まで来た。
 そして、振り返った。先ほど殿山がいた小高い場所だ。
 ここで、
 そう、ここで急に何かが閃いた、となるのだが、そのようなことは起こらなかったようだ。
 
   了

 



2019年8月8日

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