小説 川崎サイト

 

お籠もり堂


 稗田は暑いだけの日々を送っている。これは幸せな話だ。気にすることは暑いだけ。それを越えるものがないのだから。
「呑気でいいねえ」
「そうじゃない」
「じゃ、暑さ以外に何か気にしないといけないことでもあるのかね。まあ、普通は暑い寒いなどは二の次三の次だがね」
「ある」
「ほう」
「暑いので忘れた」
「暑さぼけか」
「暑いので、それどころじゃない」
「暑さが麻酔のように効いて、痛みが消えるようなものかね」
「それに近い」
「じゃ、涼しくなると大変じゃないか、痛みが表に出る」
「そうだね」
「まあ、そんなウダ話をしている場合じゃない。大事な用件だ」
「何だった」
「決まってるじゃない」
「君が勝手に決めたのだろ」
「とぼけないで」
「借金はないはずだけど」
「危ないので、君には貸さないだけ」
「じゃ、何だ」
「渋沢峠に行かないかという話だ。春頃から話している」
「何だった、それ」
「渋沢峠から一行寺という寺が見えるんだ。峠道から少し下って崖のようなところま出ないといけないがね。そこがスポットだ」
「ああ、覗きか」
「一行寺の裏側が見える」
「そんなの、見てどうするんだ。ただの山寺だろ」
「背景が山なので、安心しているんだ。そんなところからの視線はないとね」
「坊さんがいるだけだろ」
「大勢いる」
「そんな大きな寺かい」
「これは以前にも話しただろ。忘れたか」
「雑魚寝」
「そう男女がね。宿泊所なんだ」
「思い出した」
「古くからある慣わしのようなものでね」
「それがまだ続いているわけだ」
「しかし、暑いのに、そんな峠に登りたくないなあ」
「知らないんだ。夏山は涼しいんだ。それに高い峠じゃないし、そこまでは全部木陰だ。意外と涼しいんだよ」
「分かった。秋になったら行くよ」
「秋になると戸を閉めるので、見えなくなる。今が見所なんだ」
「そうか、急ぐ必要があるなあ」
 というところで稗田は目を覚ました。友人が来ていて、一行寺の話をしていたようだ。
 そういえば春頃、そんなことを話していたが、その友人も夏バテなのか、その後、来ない。
 
   了



2019年9月14日

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