小説 川崎サイト

 

日常風景


 日常の一寸したことでもより大きく広い世界と繋がっているものだ。ただ、そこから辿っていく必要まではない。日常内での話なので、一寸したことを一寸済ませる程度。それ以上関わるようなことはない。
 これは物や事柄だけではなく、人もそうだ。一寸そこにいる人、風景画の中に一寸書き込まれただけではない。親もおり、子もいるかもしれない。親がいるのならその親もおり、さらにその親もいるだろう。これは辿り出せばきりがないが、日常内ではその必要はない。ただ、いきなりそこにいるわけではないことは確か。当然、通行人にも住処がある。普段着で通っている人なら、この近所の人だろう。大きな町でなければ、こことそれほど違わないところに住んでいるはず。市外とか県外、または国外から来ている人は希だろう。
 その町はよくある地方の小さな町。より大きな町や都会とも隣接している。そのため、そのへんを歩いている人は近隣の人だろう。もし他府県の遠いところから来ているとすれば、何らかの事情があり、こちらが見ているのは日常の風景だが、そういう人にとっては遠隔地になる。わざわざこの町へ来るだけの用事があるのだろう。
 まさか、散歩が長引いてここまで来たなどはないはず。それなら旅行だ。ただ、この町は観光地ではないので、わざわざ来る人などいない。小さな町でもそれなりに観光資源を活かそうとしたり、町興しではないものの、何か地元らしいことをやろうとする動きはある。
 しかし、わざわざ他府県からそれを見に来る人などいないはず。そういった情報を全国的に発しているわけではないので。
 またこの町が故郷の人が、他府県から来ていることもある。お盆の帰省などがそうだ。車で帰って来た人は他府県ナンバーで分かる。
 だから、歩いている人が、全て近所の人ではなく、普段着の人だけではない。中には、とんでもない事情ができて、この町に降り立った人もいるだろう。
 また何らかの病を得て、その後、歩くのも難しくなり、ゾンビ歩きになっている人もいるはず。遡れば、それなりの事情が出てくる。
 日常風景といっても、その中には色々な拡がりがあり、また奥も深い。一人一人の事情だけではなく、建物にも、道路にも、それなりの物語が埋め込まれている。普段はその表の顔だけを見ていることになるが、それだけで十分。何故なら、直接関係してこないため。だから知らなくてもいい。
 そして、それを観察している日常の中にいる人も、いつ自分が日常的ではないことに陥るかは分からない。その他大勢の通行人の中の一人であることは、結構仕合わせな状態なのだ。
 
   了

 


2019年10月18日

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