小説 川崎サイト

 

漫画原稿持ち込み


 かなり前の話である。古き良き時代とまでは言えないが、結構人の出入りが自由だった時代。しかし、歴史的な話ではなく、漫画の話。だから話も漫画だ。
 大都会の大手出版社に一人の薄汚い男が訪ねてきた。漫画の原稿を見せたいと。
 この出版社は漫画雑誌も出しているが、漫画の出版社ではない。
 それで、漫画のどの編集部にも手空きの人がないため、文芸系の担当者が見ることになった。こういうのは歯医者ではないが、予約制。それさえなく、漫画の原稿は懸賞へ送れとなり、さらにデータで送れとまでなりつつある。
 わざわざ編集者が、通りがかりの人と会うようなものだ。そんなことが簡単にできた時代。そのため持ち込む人の中には荒っぽい人もいる。当然有名な作家も持ち込んだりする。
 そして、それほど直接田訪ねてくる人も多いわけではないので、編集者は勉強の意味も込めて、そういった持ち込み者と面会するのも仕事の一つだと心得ていた。また、もの凄い大物になる新人が来るかもしれない。そういったことはほぼあり得ないのだが、そんな夢のあった時代。
「原稿、見せてください」
「先ほどから見せていますが」
「ああ、そうでしたか、失礼。絵コンテでしたか。かなりラフな。ネームをこれで切るわけですね。今度来られるときは完成された原稿を持ってきてくださいね」
「それが完成原稿です」
「え」
「漫画原稿です。完成したものです」
「そうでしたか。下絵にしてはペンが入っていますし、妙だと思ったのです」
「はい」
「これを見ながら、本書きするわけですね」
「いや、もうそれが本書きです」
「しかし、絵が」
「えっ」
「絵がねえ」
「絵がどうかしましたか」
「これはねえ」
「はい、なんでしょう」
「うちは商業誌なので」
「知ってます」
 編集者は絵のひどさに驚いたが、こんなものを持ち込む勇気にも驚いた。いったいどんな頭をしているのかと。
「人物の顔がコマごとに違うのですが、これは別人ですか」
「同一人物です」
「腕の関節が一つ多いのですが」
「足りなかったもので」
「こちらは左腕が非常に長いように思いますが」
「それも足りなかったので、伸ばしました」
「デッサンとかの練習は」
「デッサン」
「石膏デッサンとか」
「しません」
「絵の練習が必要なようですが」
「練習などしたこと、ありません。一円にもならないですから」
「それと、下絵はどうしました。これが下絵ではないことは判明しましたが、これを書くとき、下絵をしたでしょ」
「下絵はしません」
「じゃ、いきなりペン入れですか」
「そうです」
「どうしてです」
「折角書いても消すわけでしょ。もったない」
「どちらにしましても、絵の練習から始められた方がいいのではありませんか。上達すると思いますが」
「しますか」
「保証しませんが」
「じゃ、無駄なことはしません」
「それと、漫画原稿は所謂版下として使います。ですから、手塚先生のような大家でもない限り、こんな薄い紙に書いては駄目ですよ。それにしわくちゃになってますし。折り目が」
「チラシの裏よりもましかと」
「一応拝見しました」
「そうですか。どうでした」
「さっきから返事はしています。まだ続けますか」
「やはり、駄目ですか」
「それ以前の問題かと思われます」
「はい、参考になりました」
 編集者は漫画原稿のようなものを返す前にネームをちらりと読んでみた。
 いやにセリフやナレーションが多い。
 長い目のナレーションを読んでいるうちに、目の色が変わってきた。漫画原稿は八枚程度の短編だが、ネームだけ読み取ると、問題は何もないどころか、その文体に衝撃を受けた。
 彼は文芸部にいるだけに、絵よりも詳しい。
「少し待って頂けますか」
 持ち込みの男が帰ろうとしていたときだ。
「編集長を呼んできますので、少しお待ちを。ああああ、ここじゃなく、一緒に文芸編集部へ来てもらえませんか」
「はあ」
 この男、のち、知る人ぞ知る詩人になる。
 大きな美術館での宣伝ポスターで「絵を見た声も出ない」というのが有名なコピーで、覚えている人も多いだろう。
 というような夢のような話がありそうな時代だった。
 
   了


2019年11月4日

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