小説 川崎サイト

 

出来損ない


 楽しいことがあった翌日よりも、苦しいことが終わった翌日の方がよい。これはプラス側がプラスマイナスゼロになったためだが、後者はマイナスがプラスマイナスゼロになっているため。プラスマイナスゼロとは平常。
 どちらも平常に戻るのだが、戻り方が違う。前者は下がるが後者は上がる。上がっても平常で、プラスではないが、前日から比べるとプラス。一方楽しいことがあった翌日は一段落ちる。ただし平常に戻るだけなのだから、問題はない。マイナス側ではない。
 だが楽しいことがある前日は楽しい。プラス側へ向かっているためだ。そして苦しいことがある前日は苦しい。これも同じ理屈。
 喜怒哀楽には波がある。色々な出来事、イベントと言ってもいい。別にコンサートやライブをやるわけではないが、生きていることそのことも一つのライブ。現実劇場。だから現実が確実に動く。
 何かを成すには結構苦しく、辛いことが多い。だが良い結果が出れば、それまでの苦労が報われるわけなので、それらを含めるため感慨深いのだろう。
 常に平常で、平坦で、起伏がなく、喜怒哀楽も少ない状態なら、ドタバタしなくて済むのでいいようなものだが、波風は小さいながら、立っている。ただその規模が小さいだけ。だから感情の起伏も少ないのだが、ないわけではない。心がゼロになった人は悟った人だろうが、生きているのか死んでいるのかが分かりにくい。単に頭がぼんやりとしているようにも見えて紛らわしい。
 子供に比べ、大人は好奇心が弱くなってくるのか、または既に知っていることなので、それほど驚かなくなる。
 だから年を経るほどドタバタしなくなるのだが、意外と例外があったりする。
 ただ、好奇心を持つことは、まだ伸び代があるということだろうか。それは僅かなものかもしれないが。
 人というのは悟りへと走るよりも、何処かに楽しみを見付け出そうとしているように思える。これは悟りとは逆方向で、子供の持っているあれに近い。だが、それは大人げないと言われたりしそうだが。
 好奇心とか興味とかは、その先で役に立つためかもしれない。子供の動きを見ていると、その練習をしているように見える。
 できなかったことができるようになると楽しい。逆にできていたことができなくなると悲しい。
 できるかもしれないのにできない状態。出来損ないのようなものだが、まだ伸び代があるということだ。
 
   了
 
 


2019年12月2日

小説 川崎サイト