小説 川崎サイト

 

走らないメロス


 安田は急いでいた。よくあることだ。約束の時間に間に合わない。遅刻する。集合時間に遅れそう、などは日常的によくある。
 それで、実際に走っている人もいる。その中には走れメロスをやっている人もいるだろう。
 小走り、そうでなくても急ぎ足。普段よりも早い目に歩く。また、急いでいなくても早歩きが普通になっている人もいる。この場合、いつも同じその早歩きが癖になっていると、普通に戻せない。所要時間が決まってしまっているため、その早さでないと、間に合わないように通っているためだろう。だから、急がなくても急ぎ足。
 遅刻しそうになり、急いでいるとき、パタリと何かと遭遇する。普段ないような偶然。話の上ではよくあるが、現実には滅多にない。ただ、急いでいるため、思わぬミスのようなことをする。一番多いのは誰かとぶつかること。急いでいなければぶつからない。だから、偶然ではない。普通に歩いていればぶつかるようなことは少ないだろう。
 安田は、そんなことを思いながら、急いでいた。急ぐには理由がある。それは何でもいいのだ。安田の場合はただの寝坊。しかし、これを甘く見ていた。多少の寝坊でも間に合う。しかし、気になるメールが来ていたので、見ていたのだ。詐欺メールだろう。フィッシングというやつだが、リアルに、そして具体的にできている。固有名詞が色々入っているためだろう。数字も具体的。
 それで、寝坊で急がないといけないのに、余計なものを見てしまった。それで、家を出たとき、少し急がないといけないかな、と思う程度だったが、途中で煙草を吸うのだが、こんな日に限ってライターを忘れた。ポケットには煙草だけ。これもよくあることで、煙草そのものも忘れることもある。ライターだけなら、予備が鞄の中に入っているので、それを使えば問題はない。いいフォローだ。
 だが、その予備を使ったのを忘れていた。一度そういうことがあり、取り出したのだ。そのあとすぐに入れ戻すか、別のライターを入れれば、それで済むのだが、そこまでの配慮はなかった。たかがライター。これは実際には困らない。途中にコンビニがあるので、そこで買えばいい。だが高い。
 急いでいるとき、寄り道になる。レジに人が並んでいると、これはかなり遅れる。
 幸い、レジ前には誰もいない。レジ内にもいない。陳列の整理でもしているのだろう。
 ライターはレジの奥にある。だから、陳列台から探す必要はない。
 それで、レジから離れたところで、パンを並べている老婆に声をかける。案の定、耳が遠いのか、聞こえないようだ。こんなことで、時間を取りたくない。しかし、このまま出るほどのことでもないだろう。それで、大きな声を出すと流石に気づき、分かったとばかりにレジへ早足で戻ろうとしたようだが、コロッと逝ってしまった。死んだのではない。滑ったのか、躓いたのか、バランスを崩し、それを立て直しているとき、コテンと転んでしまった。しかし、すぐに起き上がり、笑いながら、レジに入った。忙しいときに、余計な芸をする老婆だ。
 それで、ライターを買う。いつもなら、ライターの陳列ケースごと出してきて、選ばすのだが、この老婆は、適当な色のを抜いてきた。
 安田は一円玉を探したりしない。余計な手間になるので、百円玉二枚を出した。このほうが十円玉や五円玉や一円玉をポケットから出すよりも早いし、そのとき、コロッと一円玉を落とし、それが床に吸い付き、爪を立てて挟もうとすると今度は滑り、前屈みになりすぎて前転、という芸をやってしまうかもしれない。それを恐れて、百円玉二枚を出した。そのあと老婆は何も芸はしないで、さっさと釣り銭を出した。
 安田は、コンビニを出たところで、煙草に火を付け、急ぎ足で、駅へと向かった。まだ走るほどではない。早い目の歩き方で十分。
 そして駅が見えてきた。楽勝だ。改札を抜ければいい感じで、電車が入って来るはず。それに間に合えばいいので、急いでも、ホームで待つだけなので、同じこと。
 ここまで来れば大丈夫だろう。
 そして、そのあと、特にこれといったトラップはなかった。
 
   了



2020年2月11日

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