バスストップ
川崎ゆきお
特に何ということではなく、何となく今いる場所から離れたくなるものだ。
修一は、そのことに関し、際だった考えを持っていたわけではない。
あくまでも、何となく…なのだ。
そのため、少し、このコースから離れてみようというだけの、軽い動機しかなかった。
次の就職先が見つかるまで、フリーな時間を過ごすのも悪くはない。
務めていたころよりも、ストレスは減った。
逆に歯応えのない生活にストレスを感じたのかもしれない。修一は昼時、ファミレスの前からバスに乗ることにした。
路線バスが走っていることは知っていたが、乗る用事はなかった。
ここ数カ月、毎日のようにそのバスを見ている。ファミレス前にバス停があることも知っている。
しかし、修一の生活の中にはバスの出番はなかった。路線バスが走っている程度の認識なのだ。
だからこそ、乗ってみようかという気になった。ほとんど意味のない行為をするのは、そういう行動も可能だと思いたいのかもしれない。
それだけのことなのだが、そこに修一の揺れ幅がある。
少しは揺られてみたいのだ。
修一は説得力のない行為に出ていた。自分自身は納得できるが、他人には理解してもらえない動きだ。
そういうことも可能かも…程度の動きなのだ。
しかし、その動きに出られることに、少しばかりの喜びを感じている。
風邪で詰まっていた鼻が、ある衝撃で、スーと通った時のように…。修一はバス停の前に立った。
数分後、バスを待つ人が集まり出した。
老人と主婦が多い。
この道沿いに用事で来た人だろうか。電車や車、あるいは自転車で来るよりも便利な人達なのか。
修一のように、趣味や気紛れで乗る人は少ないだろう。
しかし、似たような乗客がいるかもしれない。
なぜなら、修一もいるのだから。バスの正面が大きくなり、やがて道を塞がんばかり、壁のように迫って来た。
修一は一番最初に待っていたので、真っ先に乗った。
そして空いている座席を見つけ、素早く座った。
一緒に乗った老人は優先座席に腰掛けた。
慌てなくても座席は十分空いていた。修一は行き先を見ないで乗った。バス会社も確認していない。
市バスではなく、私鉄のバスだった。バスが走るに従い、見慣れた景色が消えた。
修一はファミレスの前の道沿いを百メートルほどしか移動したことがない。
その道を利用する用件が、これまで一度もなかったのだ。
この道を知ったのは、歩いて行けるファミレスが近くにあると、不動産屋に教えられたからだ。修一は車窓風景を見ていた。そして気に入った場所で降りようと考えた。
その場所は市街に出た辺りで現れた。田園風景がほんの少し残り、お寺の屋根が見えた。
その辺りを散歩してみようと決めた。修一は下車ボタンを押した。
赤いランプが、一斉に点灯した。既に修一が押したので、他の人は押さなくてもよいという合図なのだ。
そしてアナウンスが流れ、次のバス停で停車することを告げた。バスが止まった。
そのバス停に到着したのだ。
バス停のすぐ手前でボタンを押したようだ。
しかし、バスは急停車したわけではなく、ゆっくりとスピードを落としたので、ボタンを押すのが遅かったわけではないようだ。修一は急いで運転席側のドアへ向かった。
乗る時は後ろから、降りる時は前から、であることは、他の乗車客の動きで分かっていた。
修一はポケットから小銭を取り出しながら、運賃箱の前に立った。既にドアは開いていた。
このバス停から乗る人はいないらしい。
修一は運賃表の存在を知った。
たまに乗る市バスと違い一律料金ではなかったのだ。
運賃表は数段の表になっており、番号と運賃の組み合わせが並んでいた。
整理券が必要なことを知ったが、乗る時に取らなかった。何かアナウンスが流れたような気もしたが、聞き取れなかった。
きっと整理券をお取りくださいと、言っていたのだろう。
修一は、説明するのが面倒なので、整理券なしの料金を見た。
それほど長距離を走る路線バスではないのか、三八〇円と読み取れた。
修一はポケットから出した小銭を手のひらで広げた時、肘が運賃箱横のポールにあたり、パラッと落ちた。
近くにいたおばあさんが、その中の一枚を拾ってくれた。
小銭は後部座席にまで転がっていたので、拾いに行こうとしたが、手間がかかるのでやめることにした。
しかし、手元の小銭は一円玉が多く、百円玉三枚を見つけることができなかった。
五十円玉はなかった。
十円玉も八枚はない。
しかし、五円玉が数枚あった。それと一円玉を集めれば八十円になる。
しかし、百円玉が一枚足りない。
修一は小銭を諦め、千円札で支払うことにした。
そして財布を開いた時、後部座席の老人が飛び散った百円玉を拾ってくれたのか、指を突き出しながら、修一に声をかけて来た。
修一は老人の好意を無視するわけにもいかないと思い、百円玉を受け取りに行った。
そして、運賃箱に百円玉三枚と十円玉七枚と五円玉二枚を入れた。
運転手は、修一が整理券を取り忘れたことを知っていた。三つ前から乗って来たのだから、料金は一八〇円でよかったのだ。
しかし整理券がない客は、最初から乗っていた客と見なさないといけない。
一言修一が、取り忘れたことを告げれば、運転手も知っているので、了解しただろう。
運転手は料金箱に落とされた小銭を瞬時に数えた。
十円足りない。
運転手は知らないふりをすることに決めた。
バスの横を乗用車が対向車線をはみ出して追い越した。
修一は、運賃箱の小銭を確認する運転手の息遣いに、妙なものを感じた。息が合わないという感じだ。
何か奥歯にものが挟まっているような…、目にちょっとしたゴミが入っているような…、そんな空気の間合いを感じた。
その理由はすぐに判明した。
運賃表を読み違えたのだ。
修一は、整理券なしは三八〇円だと思っていたのだが、近くで見ると三九〇円となっていた。8と9を読み違えたのだ。
修一はポケットをまさぐった。
十円玉を取り出そうとする仕草に対し、運転手は目立った反応を示さなかった。
料金が足りているのなら、その旨を伝え、無駄な仕草をやめさせ、さっさと降りるように促すだろう。
運転手はそれをしなかった…と、いうことはやはり十円玉が足りないのだ。
しかし、運転手はその時、バックミラーを見ており、修一の仕草に気づかなかったのだ。
運転手は修一がポケットから小銭を出し、手のひらの上に広げて一円玉を数えているのを見て、まだ、何かやることがあるのかと不審がった。
修一は五円玉一枚と一円玉五枚を料金箱に入れようとした。その前に運転手に、それを示した。
運転手は、分かりましたとばかり、頷いた。
修一は無事に料金を支払い、タラップを降りかけた時、空足を踏んだ。
階段だと思ったところがそうではなかったのだ。
足が少し痛んだが、問題はなかった。少しバランスを崩しただけだ。
だが、次の足が出なかった。
足がつったのだ。
どうしても次の一歩が出ない。
修一はタラップの前で立ち止まってしまった。
しかし、立っているわけではない。必死で足を出そうと動いているのだ。
だが、立ち止まっているとしか見えなかった。
運転手はドアを閉めるタイミングを逸した。
修一はニヤリと笑った。
照れ笑いだった。
運転手は、まだこの客は何かやることがあるのかと不気味がった。さっさと降りれば、それで終わる問題だった。また、問題になるようなことは運転手も客もやっていない。修一は片足だけでタラップを降り、バス停の前で腰を下ろした。
バスは急発進し、その後ろを何台もの車が続いた。
修一は路上に座り込みながら、その列を見ていた。了
2004年5月18日