小説 川崎サイト

 

蠢動


 吉田が万年床で寝ているとドアのノック音。コンコンと聞こえ、そのあと間を置いてコン。これは松浦だ。このノック音以外では出ない。ただ、声で呼ばれれば出るが、ただのノックだけでは出ない。
 松浦が来たとなると蠢き現象。これは春になったのだろう。松浦は冬は来ない。夏も来ない。秋も。春だけ来る。しかもまだ寒い時期に。つまり眠りから覚めたのだろう。
 吉田はロックを外し、ドアを開ける。そこには一年前と変わらない姿の松浦が立っている。服装も一枚切りのダウンジャケット、かなり汚れている。しかも安っぽくボリュームがない。空気が抜けた風船のように。
 という吉田も寝ていたのだが、冬眠ではない。昼のこの時間は寝ているのだ。といって夜間のバイトへ行くわけではない。生活時間帯が逆転しているだけ。吉田にとり、これは普通で、起きる時間が一日一時間ほどずれる。そのため、朝にしっかりと起きているときもある。だが、一日経過する度に遅く起きるので、長くは続かない。所謂不規則な生活。だが、十分寝ており、睡眠不足とは縁がない。むしろ過剰に寝ている。
 寝たいだけ寝るため、起きるのがズレる。
 吉田は松浦の姿を見たので、春が来たことが分かったが、まだ寒い。春先に見かける草花や鳥のようなもの。年に一度の御目見得だ。ただ松浦は格下。吉田の方が高い。しかし、最下位近くの争いなので、二人とも格は低い。底の底。
「さて、今年は何を始めようかと考えているのだが、吉田君、何か意見でもある」
「そうだね。その内容よりも、そんなことばかり言っていることに対し、意見したいね」
「あ、そう」
「まあ、何かやることが決まったので、言いに来たんだろ」
「御名答。一応誰かに宣言するのがコツでね。それがスタートだ。その報告先が吉田君、君だよ」
「僕に言っても仕方がないじゃないか」
「言いやすいから」
「で、今年は何だい」
「真人間になる」
「人間じゃなかったのか、今まで何だったんだ」
「細かいこと、言わないで」
「つまり、真っ当な暮らしをしたいというわけだね」
「そうそう」
「立派な社会人になるということだ」
「そうそう。夢は社会人なんだ。社会人として恥ずかしくない暮らしがしたい。当然態度もだよ」
「じゃ、普通の人になるんだね」
「これが難しくてねえ。旦さん今晩はなんだ」
「なんだいそれ」
「段差あり」
「だから、そういう自分だけの言葉を使うからいけないんだ。社会人になりたければ、一般的な言語を使わないとね」
「そうだね。うっかりしてた。今朝思い付いただけなので」
「じゃ、一般社会人になることを今朝思い付いたということだね。今朝」
「それで、急いで言いに来たんだ」
「それよりも実行だよ」
「案内書送れのハガキを一杯出した」
「会社案内」
「いや、通信教育の案内書」
「ほう」
「まずは資格からだ」
「資格なんて、いくらあっても無理だよ。余程いいのを取らないと。取っても仕事があるかどうか、分からないしね」
「まずは空手の通信講座を受ける」
「格闘家にでもなるの」
「違う。まずは体力。身体を鍛える。そしていざというときの護身に使える」
「じゃ、合気道の方がいいじゃない」
「うん、そうなんだ。それで悩んだんだ。どちらがよいか分からないから両方受けるつもりだよ」
「はいはい」
「ところで藤田君」
「吉田だよ。で、何だい」
「君の場合はどう」
「相変わらずさ、寝たり起きたり」
「それはいけないなあ」
「そうだね」
「春なんだし、僕と一緒にやり直そう。再出発だ」
「そうだね。やろうやろう」
 二人はその後、子供相手の駄菓子屋の奥にあるテーブルでお好み焼きを何枚も食べた。小さいのだ。しかし安い。全て野菜焼きだったが。
「来年もまた来るよ」
「頑張ってね」
「ああ」
 駅まで送ろうとしたとき、雨が降り出した。しかしみぞれに変わり、急に寒くなってきた。
「春が来たかと思ったのになあ」
「もう三月だから来てもいい頃だよ」
「そうだね」
「ああ」
 
   了
 



2020年3月5日

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