小説 川崎サイト

 

異界手記


 その世界は、まだ誰も知らないのだが、ここでは知る必要そのものがないだろう。
「これは」
「異界へ行った人の手記です」
「創作ですか」
「まあ手記なので、何とも言えません。本人が書いたものなので」
「で、何処へ行かれたとなってます」
「それがなっていません」
「行かなかったのですか」
「だから、行った手記です」
「じゃ、何処へ行ったのかが書かれているでしょ。そうでないと手記の意味がない」
「人に見せるものではなかったのでしょう。日誌とは別に、薄いノートに書かれていました。まあ、遺品ですが発見されたのは何十年も前です」
「日記の方はどうなんです。リアルでしたか」
「事実関係が書き記されたメモのようなものでした。忘備録でしょ」
「その日記の中に、その手記の内容はなかったのですか」
「日記ではまったく触れられていません」
「どうしてでしょう」
「見た夢のようなものでしょ。そういうのは書き残していないので」
「じゃ、そんな夢を見たのかもしれませんねえ」
「しかし、一冊だけ、それが残っています。別扱いです」
「それで、中身なのですが、見当が付きませんか。何処へ行き、何を見たのか」
「誰も知らないことだと断っています」
「それは凄い。何でしょうねえ」
「知っている人がいるかもしれませんが、普通の人はまあ、窺い知れない世界なのでしょう」
「何処でしょ」
「だから、知る必要はないとなっています」
「それは先ほど聞きました」
「薄いノートに書き記されてあるのは、その異世界についての話です」
「だから、それを早く聞かせて下さい」
「異世界についての話でした」
「はあ」
「この世には計り知れないことがあり、未知の領域があり、滅多にそれが姿を現すこともなく、またその入口など誰も知らない」
「はあ」
「そういうことが綿々と語られています。本人もその世界へ入ったようなのですが、それについての具体的記述はありません」
「どうしてでしょう」
「言えない。語れなかったのでしょうねえ」
「だから書かなかったと」
「そうです。書けなかったようです。しかし、そういう世界があるぞということだけは記しておきたかったのでしょうねえ」
「誰にも見せる必要もない手記のようなものでしょ。日記のようなものでしょ。だから好きなように書けるでしょ」
「生存中、誰かに見られる恐れがありますし、亡くなったあとでも、こうして発見されますから、迂闊なことは書けなかったのでしょうねえ」
「どうしてでしょう」
「この人がどんな世界に入り込んだのかは分かりませんが、おそらく人に言えないような世界でしょ。だから言えない。語れない」
「言えばどうなります。書き残せばどうなります」
「狂人だと思われるでしょ」
「その一冊だけのノート。創作じゃないのですか」
「それなら異界の様子などを事細かに書くでしょ。嘘ですからね。嘘はいくらでも書けます。嘘の方が語りやすい」
「はい」
「まあ、違った世界が世の中には存在しているということだけでいいでしょ。私達が旅人のように見学するような感じではない接し方になるのでしょうねえ」
「その人はどういう終わり方をしました」
「ああ、人生ですか。そうですねえ。平凡な老人になり、普通に旅立ちましたよ。特に変わった人じゃなかった」
「はあ」
「また、その世界について知る必要もないと言ってます」
「そこに何かありそうですねえ」
「何かあるということだけが分かっているという話です」
「あ、はい」
 
   了


2020年3月26日

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