小説 川崎サイト

 

秘境喫茶


「あれは初夏の頃でした」
「はい」
「すっかり暑くなってましてねえ。春物じゃ暑いほど。それを脱いで、自転車で走っていました。少し遠いのですが、最近見付けた喫茶店がありまして、静かでいい。理想的だ」
「そこへ向かわれたのですね」
「まだ五月です。末ですがね。だから五月晴れ。これが夏のような陽射し。まだ冬物の帽子なので、これが痒くて痒くて。しかし帽子なしじゃ、直に来ますから」
「遠いところにある喫茶店へ向かわれたのですね。でも自転車なので、それほど遠くはない」
「ええ、自転車なら、まずまずの距離です。駅を三つほど超えたところです。電車で行く場合、駅まで歩かないといけないが遠回りになるので距離が長い。しかも暑い最中。駅まで歩く時間で、その喫茶店まで行けそうな感じですが、まあ、それは大袈裟で、半分ほどの距離まで行けます。そして駅から電車に乗ったとしても、すぐには来ない」
「はい」
「そしてやっと入って来た電車に乗り、二駅で終点。私鉄の支線なので短い。それと駅と駅の間隔も近い。見えているほどです」
「はい」
「それで本線に乗り換えるのですが、階段がきつい。エスカレータもありますが、ここは運動のため、階段です。そしてホームで少し待つ。流石本線なので、電車はすぐに来るのですが、特急や急行では駄目。降りる駅は各停しか止まりませんからね。それで普通が来るまで待つ。待ち時間は支線の駅と変わりませんよ。自転車なら、もう着いています」
「はい」
「それで乗ったはいいが、次の駅なので、ゆっくり座ってられない」
「はい」
「だから、自転車で行くわけです。少し説明が長かったですが」
「いえいえ」
「その喫茶店は駅前にあるのですが、それは入口でして、看板は出ていますが、そこにはないのです」「はい」
「自転車が一台しか通れないような路地というか隙間です。店と店との間」
「はい」
「そこを進むと、右に回り込む通路があるのです。その先は十字路。しかし、狭いですよ。自転車だと曲がりきれないので、少し持ち上げて方角を変えるのです」
「そこは何処なのですか」
「色々な建物の裏側でしょ」
「はい」
「それで曲がったところに喫茶店があります。いいでしょ。隠れ家です」
「それを見付けられたのですね」
「ええ、偶然見付けたのです。この駅前を探索していたとき、その路地に紛れ込んだのです。まるで迷路。ダンジョンです」
「じゃ、喫茶店への入口は複数あるわけですね。十字路があるほどなので、別の場所からも繋がっている」
「そうです。以前は駅に出ようとして、迷い込んだのです。そのとき偶然見付けたのです。今は駅側から入るようにしています。そちらの方が近いのです。だから看板を出しているのでしょう」
「店内はどうですか」
「古いですが、普通です。特に変わった店ではなく、普通の人が普通に入れるような何の特徴もない店。私はそれを風通しのいい店、ニュートラルな店と呼んでいまして、一番好ましいパターンです」
「隠れたる名喫茶ですね」
「建物が増えて、隠れてしまっただけです。でもその路地内にある店は、この喫茶店だけ。周囲にも店屋はありますが、裏側なのでね」
「分かりました。取材に行きます」
「あまり行かない方がいいですよ。今のまま隠れたままがいいし」
「いえ、名店巡りですので」
「じゃ、私はこれで」
「あなたが喫茶店に詳しいと聞いたので」
「それほどでもありません」
「いい店を教えていただいて、有り難うございました」
「いえいえ」
 このルポライター、仕事をするのが嫌で、しかも出不精。それで取材に行ったのは三ヶ月後。
 言われた通り、その駅で降り、看板を探したが、そんなものはなく、その入口らしい細い路地というか隙間は見付かったが、袋小路で、その先は壁だった。
 
   了

 


2020年5月17日

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