小説 川崎サイト

 

三分室の男


 カチンカチンと音がする。小さな音。隣の部屋から聞こえてくるのだろうか。雑居ビルの五階。壁が薄いのかもしれない。音は意外なところから来る場合もある。カチンカチンと小さな音で、耳障りにはならないが、その音ばかりを聞いていると、徐々に大きくなる。
 カチンカチンは一定のリズムがあり、時を刻む時計のよう。だから人が鳴らしているのではないのかもしれない。もしそうだとすると凄い集中力を長時間必要だ。
 オフィスが静かなので、そんな音を拾うのだろう。ちなみに両隣は無人。田中は何か音楽でも流そうとしたが、会社なので、そんなものはない。持ち込んでも分からないのだが、スマホがあれば必要ないだろう。
 本室には一度も行ったことはない。面接は喫茶店だった。しかも風通しのいいファスト系。入社式もなく、いきなり歓楽街の端にある雑居ビルへの出社。それが第三分室。前任者と交代し、一人勤務。しかし、その仕事のほとんどは待機。
 仕事がやりたくてたまらないような人間ではないので、田中にとり、これは楽。できればこのまま一生待機だけの仕事を望んだりする。
 だが、牢に入っているようで、退屈する。それで、前任者が言っていた市場調査に出ることにした。これは結局は暇潰しの散歩らしい。
 待機だが、外出を禁じられているわけではない。ずっと詰めている必要はない。という規約あるわけではないが、休憩時間は外に出るだろうし、当然昼を食べに行く。
 本室からの連絡はスマホにも来るので、何処にいてもいいようなものだが、最初は分室の据え置き電話に来るらしい。いなければスマホになる。
 本室の手助け、助っ人要員として第一分室第二分室がある。そして田中が配属されている第三分室。
 何を助けるのかは分からないが、ほとんど本室だけで間に合うらしい。
 そして手助けとか、遊軍とかの説明を前任者から聞いたが、その前任者の老人は一度も駆り出されなかったらしい。だから、どんな仕事なのかは知らないとか。
 それで、その前任者、毎日市場調査に出ていたらしい。つまり長時間散歩だ。
 ということは長い間、前任者は勤務したが一度も呼び出しはなかったというのだから、市場調査が仕事になる。だから散歩で時間を稼ぐ。そのため、散歩能力が必要。如何に飽きないで、街中をウロウロできるか。そしてこれは散歩好きでないと務まらない仕事。
 この市場調査、待機中の仕事だが、命じられているわけではない。しかし日報を送らないといけないので、何か書かないと駄目。しかし、オフィス内でじっとしているだけでは何も書くことがない。だから市場調査レポートを日報に書くのが好ましい。前任者もそれをやっていた。そして前任者は日本茶のマニアで、それについても日報で書いていたらしい。ほんの数行だが、白紙よりもいい。
 そうなると、田中の日報は散歩日記になる。これは立派な市場調査で、見聞録。街の様子などを少し書けばいい。
 そして、今日も出社後、すぐに田中は市場調査に出た。
 こんな勤務でいいのだろうかと思いながら。
 
   了
 


2020年6月5日

小説 川崎サイト