小説 川崎サイト

 

魔夏


 理性というのは意識しないと出せないようだ。出せない、出ない。あまり理性的な言い方ではないが出物腫れ物ところかまわず。知恵も出すし、悪知恵も出す。
 しかし、意識しなくても、習慣化すると、常に理性的な態度が前面に出る。これは盾だ。前衛だ。まあ、それは常識的判断で、決して悪くはない。それどころか好ましい。そこに理性があるのかどうかよりも理性的な人だと思われるが、そんな概略まで思う人は少ないだろう。理性的な性格という程度で、性格の一部のように受け取ってもいい。
 理性的態度は習慣で、意識しなくてもやっていることもあるが、習慣とは日常範囲内。いつもの暮らしや、いつもの仕事や、ある程度習慣や社会的慣習となっていることで、分かっていることが多い。だから日常外というか、普段にはないことに遭遇すると、理性的習慣の埒外、圏外に出てしまうのだろうか。そこで改めて理性を使うことになるが、そんなものを使っている間にやれてしまったりしそうだ。
 たとえば一刻も早く逃げないといけないのに、冷静に判断するため、情報をもっと集めるとかだ。より知的に、より優れた理性的判断ということになるが、考えている場合ではなかったりする。ここは理性云々よりも動物的な危機感で、躊躇なく逃げるのがいい。理性よりも動物的何かの方が、早く正確だったりする。当然事柄にもよる。
 さて、夏。急に話が変わるが、杉並という男がいる。そんな名の人間ならいくらでもいるだろう。女性でもいい。
 その杉並、梅雨が明けるのを恐れている。
 しかし、杉並は常識的で、理性的な人間なのに、梅雨明けを何故恐れるのか。何かの事情があるはずで、それは梅雨時の雨が好きなわけではない。しかし、晴れた日が嫌いなわけでもない。寒い時期の小春日和など、日向ぼっこをするほどで、太陽が怖い種族でもない。
 実は夏の陽射しが怖い。そのため、梅雨が明けてからの夏が怖いのだ。その兆しは既に見えており、杉並は、それを見ると、ドキッとし、さっと目を逸らす。
 何を見たのか。
 雲の隙間から見える真夏の青空。
 それを杉並は魔夏と呼んでいる。
 暑いからいやなのではない。先ほどからいっている理性が効かなくなるためだ。真夏の暑さでぼんやりとすることはあるが、それは毎年あること。よくあること。しかし、杉並にとり、理性が狂うらしい。年中理性的な杉並だが、この真夏だけは違う。だから、できるだけこの時期は大人しくしている。
 理性は暑さに弱い。特に杉並は弱いタイプ。しかし冬場の理性度は非常に高いが。
 梅雨が明けそうな時期、雲の隙間から見え隠れしている魔夏。
 今年もまた夏がやってくる。魔夏がやってくると杉並は呟いた。
 
   了

 


2020年7月9日

小説 川崎サイト