小説 川崎サイト

 

平穏心


 妙に落ち着き、穏やかな日がある。気持ちの上で。田中はそういう日がたまに来る。ということは普段はそうではない。そちらの方が日常的で、いつもの気分だろう。
 しかし、何かが落ちたように、池の水面が鏡のようになる日がある。何が映っているのだろう。田中の気持ちではなく、周囲の風景だ。青空が入り込んでおれば、綺麗だろう。しかし、鏡なので、ほぼ同じものが映っている。そこにさざ波や波紋が来れば水面は揺れる。それで印象派のような絵になる。しっかりとは見えないが、同じものを見ているより、こちらのほうが変化があり、更に動いている。
 さて、心安らか、波風が立たない状態に、田中はたまになるのだが、これは一段落したり、いっときの熱気や活気、または騒がしさが去ったあとだろうか。穏やかなのだが、何か気が抜けたようになる。ふぬけとまではいかないが、頭の中にあまり何もない。燃やすようなものが入っていないためだろう。
 その状態は長くは続かないが、しばらくは続く。半日いくかどうかは分からないが、その状態が意外と怖い。
 まるで悟ったようになる。おそらく悟った人はそんな気持ちでずっといるのだろう。平穏なのだ。しかし、田中は怖い。
 この状態というのは諦観。何かもう諦めたような、投げ出したような状態になるため。
 それと何かに拘り、何かに熱中し、頭の中はそれで一杯のときの方が調子が良い。悟りとは逆だ。常に雑念、妄想の中にいる状態。こちらの方が生きている感じがする。
 その日、田中はそういう平穏な気分になりかかったので、眠気を覚ます意味で、何か刺激的なことをやろうと考えた。実際にはそういったものが終わったので、静まったのだが。
 俗事、煩悩、色々ある。悟りへ至るためには捨てなければならないもの。また、それらを消すのが目的だが、これは退屈だろう。
 しかし、たまには一休みするのもいい。だから、たまに気が抜けたような状態になる。ということは修行などしなくてもいつでも悟れる。しかも定期便のように常にそれはやってくる。そしてすぐに去るのだが、そのほうが幸いだ。悟ると幸いということもなくなるので。
 そんなことを考えているうちに、いつものように心にさざ波が立ちだし、いつもの田中に戻りかけた。それでいいのだ。
 
   了



2020年7月21日

小説 川崎サイト