小説 川崎サイト

 

趣味の世界


 最初の頃は分からなかったが、目が肥えてくると、その意味が分かり出す。最初はそのままだが、そこに意味が加わることで、見方が変わってくる。
 目が肥えるとは目に栄養が行き渡り、ふくよかに肥えるわけではない。目玉そのものが太るかどうかは分からないが、瞼とか、その周辺は肉付いたり痩せたり弛んだりするだろう。しかし、見え方に変わりはない。奥目でも出目でも糸目でも。
 意味というのはそのもの以外の要素が加味される。そういう含みを知ることで、目が肥えるのだが、これは視力、観察力ではなく、情報だろう。頭から入ってきた。
 そのため、目から直接受けた感覚ではなかったりする。
 しかし、人がものを見るとき、ただの映像ではなく、もっと総括的、総合的に見ている。その範囲を広げたり狭めたりする。路上の石ころなど、狭い範囲でしか見ていない。それ以上の意味がないため。しかし、コンクリート舗装された道路や歩道に石を見出すのは珍しかったりする。そのときは、昔見た路上の石とは意味が違ってくる。この石はどうしてここにあるのか、などだ。以前なら道端に小石ぐらいゴロゴロあった。また道そのものが砂利道だと、小石だらけ。
 だから、そういった推移も含めて見ているので、石にも意味が加わり、ただの石ではなくなるかもしれない。
 路傍の石という小説があったが、見付けるのが難しかったりする。
 さて、目が肥える話だが、これは個人的な感覚もある。見たいものや見たくないものがある。好みの問題。そして、この好み、嗜好は慣れてくると変わってきたりする。美味しいものばかり食べているとまずいものが食べたくなるということではないが。
 当然つまらないもの、凡々としたものに価値を見出すという捻ったものでもない。自然な流れで、決まっていく方向のようなものだろうか。
 そういった感覚の変化、好みの変化、趣味の変化というのは、個人的だが、その変化が楽しかったりする。
 同じようなものばかり見ていると、退屈するのだが、決して同じではない。何らかのパターンがある。そのパターンはほぼ同じだが、多少の違いがある。僅かな変化、違い。ここに何か違ったものを見出す。これはよく知っていないと、その違いが見えない。最初の頃は全部同じに見えるだろう。
 この僅かな違いに大渓谷ほどの深さを感じたりするのがツウの世界。しかし、ツウというのは、通らないといけない。いきなりでは無理。意味が分からない。違いが分からない。
 そしてあまりにも小さな違いだと、もう本人にしか分からない。
 ものが大きく動くより、止まっているはずのものが微妙に動いている方が目立つ。
 どちらにしても、このあたり、実用性はない。だから趣味の世界というのだろう。
 
   了

 



2020年7月24日

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