小説 川崎サイト

 

なかったことに


 大きなビルだ。この入れ物一つ全て同じ会社が使っている。自社ビルだが本社のビルは別にある。
 佐伯は恐る恐るロビーに侵入し、受付までそっと寄る。泥棒ではない。用事で来たのだ。
 受付で用事をいうと、ロビーの横にもう一つ部屋があり、喫茶店風。喫茶店ではないが、喫茶店。しかし、誰もいない。
 そこで待つようにいわれたので、適当に座ると、受付にいた別の人が飲み物を聞きに来た。
 しばらくして、何度か見た社員が姿を現した。
 佐伯は白い歯を見せたが、社員の口は閉じたまま。
「なかったことに」
 いきなりの宣言だ。こういうのは説明後に、結果的にそうなった、となるのだが、最初から結論を言われた。この一言で、全てが終わる。
「なかったこと」佐伯はオウム返しに声を出してしまう。
「なかったこと」
「状況が変わりまして」
 かなり大きな仕事で、しかも帯である。数年はこれで食っていける。余るほどで、貯金ができるほど。さらにその先があり、佐伯にとっては景気のよい話、しかも持続性、継続性、将来性もたっぷり。
 それらが全て泡と消えた。
「あるようにできませんか」
「無理です」
「予定があるのですが」
「お急ぎでしたら、僕はこれで」
「いえいえ、予定とは将来の」
「あ、はい」
「それが全て狂います。それにもう友人に焼き肉を奢りました。前祝いに。それと、靴も新しいのを買いました。今まで焼き芋のような靴でしたが」
「焼き芋」
「皮が剥がれたりしていました。色もそっくりで」
「あ、そう」
「何とかなりませんか」
「またの機会に」
「あるのですか」
「また、作ります」
「了解しました。最後に、理由を聞かせて下さい」
「遊べないとか」
「遊ぶ」
「はい。遊んでいる場合ではないと」
「はい」
「また余裕ができたら、遊びましょう」
「あああ、はい」
「では、これで」
 社員は意味もなくスマホを見ながら、立ち去った。
 佐伯は肩を落としながら、そのビルを出た。
 本来なら、このあとオフィス街の地下食堂街でビジネスランチのAを食べる予定だった。高い方で海老フライが一つ増えることと、小さなグラタンが貝のような容器に入っているのが出ること。ビジネスランチAを食べられる身分になれるはずだったが、そうはいかない。
 立ち食いの何も入っていないかけそばを食べようと暖簾を潜ったが、一歩踏み込めばもうカウンター。
 暖簾が揺れると肩に触れる。その柔らかな感触は、何かよしよしと撫でてもらっているようだった。
 
   了

 



2020年8月26日

小説 川崎サイト