小説 川崎サイト

 

満ち足りた世界


「問題は満たされたあとなんです。やることがなくなる」
「僕は何も満たされていないので、やることだらけだ」
「そちらの方が、実はよろしい」
「いえ、あなたのように満ち足りた暮らしぶりがしたいものです。きっと懸命に頑張られたからでしょうから当然かもしれません。僕はそれほど努力はしなかったので、当然の報い」
「いい報酬ですよ」
「そうですか」
「私はやることがなくなったので、暇で仕方がない。あなたが羨ましい」
「それはないと思いますが」
「満ち満ちて途方に暮れる」
「そんな暮れ方をしてみたいものです」
「いいものじゃありません。淋しいだけで」
「はい」
「ところで、今日は、何か御用でも」
「いえ、近くまで来たので、寄りました」
「あ、そう。暇だからね。ずっと在宅だ」
「数年前までは忙しそうでしたので、遠慮していました」
「そうだね。友人と会って無駄話もできない状態だった」
「また、何か始められては」
「まあ、ぼちぼちとね。だが、満たされても、大したことはない。問題はそのあとだ」
「僕には一生関係のない話です。考えなくてもいいような」
「そうだね。ところで、君は今、どうしているの」
「仕事を探しています」
「あ、そう。用件はそれだね」
「すみません」
「謝ることはないよ。紹介するよ」
「お願いします」
「自転車の整理員だが、足りないんだ」
「はあ」
「確実な仕事だ。条件もいい。君ならまだ若いので、先方も歓迎するだろう」
「そんな話、何処で聞いたのですか」
「この前まで、私がやっていたのでね。それで辞めたので、一人足りない」
「はあ」
「何か?」
「正社員で、何かありませんか」
「無理だな」
「やはり」
「私は明日から倉庫へ行く」
「倉庫?」
「荷さばきだ」
「それは大変でしょ」
「運動不足でね。ちょうどいい」
「余裕ですね」
「満たされていると、やることがないので、まあ、適当だよ」
「じゃ、自転車整理、よろしくお願いします」
「やってくれるか、先方も喜ぶ」
「はい、来た甲斐がありました」
「そう言われると嬉しいよ」
「はい」
 
   了


 
 


2020年10月9日

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