小説 川崎サイト

 

滅私奉公


 人に仕えること、商店などでの奉公だが、滅私が加わると、私欲ではなく、自分のためではなく、主人のため、店のために働く。これは使う側にしては都合はいいが、私を滅ぼすと書くのだから、自分のことは考えないで私欲を殺すのだろう。または消す。建て前としてはそうなっているが、私欲などとどめもなく沸き上がるだろう。しかも始終。
 自分のことばかり考えているというのも何だが、実際にはそれで普通だ。
 自分のことを考え、それをメインに行動する。悪くいえば我を通し続ける。自分の我が儘、自分から発している我なので、自我。自我が強い人とか言われると、これは褒め言葉ではない。我が付くとあまりいい言葉がない。我利我利亡者とか。我が利益だけを考えている人。しかし、それで普通だろう。
 しかし、そうであっては上のものが困る。使っている側だ。
 自我が強いほど安定しているが、内に対してであり、外に対しては摩擦が生じやすいので、外側から崩れだすため、安定しない。
 滅私奉公は自分を捨て、主人のために尽くす。店のために尽くす。これは意外と安定している。私欲を捨ててのご奉公だが、では私欲とは何か。仕えることが欲なので、この欲は安定している。よくやることが欲なのだ。
 滅私奉公は世のため人のため、のレベルではなく、もう少し規模が小さい。その主人は私欲を出してもいいはず。その上にさらに仕える人がいないのなら。
 すると主人の私欲に協力することになる。いい協力をすれば喜んでもらえるだろう。評価も高くなる。その評価が目的になってしまうと、これは私欲になる。しかし、そういう褒め言葉や、褒美や、出世がなければ、やってられないはず。滅私奉公だが、そこに私欲がある。それは欲だが、滅私ばかりやるのは修行者に任せればいい。そして、私を捨てるということは悟りを開くことで、それを成した人など見たことがないはず。あくまでも想像上の境地。
 結局滅私奉公でもカタルシスが欲しい。これは名誉とかのレベルだろう。
 我の弱そうな人が、実はとんでもない我を持ち続けていたりする。私欲や我を隠すのが上手いわけではないが、それこそ我慢強いのだろう。我慢しないといけないほど我が溢れ出すのを押さえ込んでいる。
 いずれもそれらは煩悩で、これは大晦日の除夜の鐘で、後頭部をガンガンいわしてもらわないといけない。
 
   了
 

 


2020年12月5日

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