小説 川崎サイト

 

湯治場へ


 妖怪博士宅に久しぶりに担当編集者がやってきた。風邪を引き、それが長引いていたようだ。それに妖怪博士は冬場は冬眠しているので、たまにしか来ない。いつもは用もないのに遊びに来ていたが、風邪では仕方がない。
「風邪は治ったのですかな」
「もう大丈夫です」
「また、何か依頼かな。しかし冬場は外に出たくないのだが」
「分かっています。今日は見舞いです」
「私は寒いだけで、どこも悪くないが」
「いえ、僕のです」
「君の」
「自分から見舞って貰おうと、やってきました」
「え」
「博士の労が減るでしょ」
「しかし、もう治ったのじゃろ。だったら見舞う必要はないし、風邪で寝ている人を見舞うつもりはない。それにただの風邪だろ」
「冗談です」
「そうだろうなあ。まあ、そんなことが言えるのは元気な証拠」
 妖怪博士は何か出そうとしたが、先に編集者がコートから缶コーヒーを二本取り出した。
「ああ、まだ温かいなあ」
「そこの自販機で買いました」
「そことは」
「廃業した煙草屋の」
「距離があるだろ。それなのにまだ温かい」
「そうですか」
「熱がまだあるんじゃないのか」
「ありません。平熱です」
 妖怪博士はカポンと開けて、ちびっと飲む。
 編集者はがぶっと飲む。
「しかし、この部屋寒いですねえ」
 妖怪博士はホームゴタツのダイヤルを回して最強した。
「見舞われ人とは珍しい。確かに見舞いに行かなくてもすむが、風邪で寝込んでいることなど知らなかったし、たとえそうでも、風邪程度では見舞いになど行かんがな。それに見舞いそのものにも行かん」
「その話は済みました。冗談だと言ったじゃありませんか」
「そうだったな。で、本当の用件は何かな」
「ありません。顔を見に来ただけです」
「そうなのか。何かとんでもない仕事でも振ってくるのかと思い、ひやっとしたが」
 編集者はコートの内ポケットから封筒を取り出した。寒いので、コートは着たまま。
「ほら、依頼じゃないか」
「まあ、見てください」
「どれどれ」
 妖怪博士はチケットを受け取る。
「どうですか」
「なんじゃこれは」
「見ての通りです」
「温泉宿か。湯治宿とも書かれておるが」
「二週間ほど逗留できます」
「ほう」
「もらい物ですが、先生に行ってもらいたいと思いまして」
「寒いときの温泉。うむ」
「行かれるでしょ」
「勿論」
「これは交通費です」
「そこまでしてくれるのは、仕事だな。経費だな」
「はい」
「やはりなあ」
「その宿が怪しいのです。それで先生に調べて欲しいと」
「依頼者は」
「いません。編集部です」
「じゃ、調べにくいのう」
「まあ、何もなければそれで結構です。ゆっくり湯治されて、寛がれて」
「弱いなあ」
「無理に調べる必要はありません。どんな感じの宿屋か程度でいいのです」
「分かった。ヘルスセンターへ行くつもりで、行ってくる」
「はい、お大事に」
「何を大事にするんじゃ。それほど危険なのか」
「それは先生が確かめてください」
「よし、分かった」
 妖怪博士は缶コーヒーをぐっと飲むが、喉に粘液が絡まったのか、吹き出した。
「失礼」
「いえいえ」
 しかし、妖怪博士は行かなかった。実は風呂嫌いなのだ。
 
   了
 

 


2021年1月17日

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