小説 川崎サイト

 

行く夏を惜しむ


 行く夏は惜しむが、行く春は惜しまない。行く春の頃は既に暖かく、初夏と重なる。ますます暑くなってくる。そのため、暖かい程度の春のほうがましなので、春のままでいて欲しいと思うかもしれないが、新緑の季節を迎え、勢い盛ん。こちらの方へ向かいたくなる。勢いのピークへ。
 そして行く夏を惜しむのは、勢いが衰え出すためだろう。下り坂。涼しくなりだすのでいいのだが、これは物寂しい。
 夏のピークは夏至かもしれない。昼間の時間が長い。朝は早くから明け、夜になるのも遅い。そのため一日が長いように感じられる。
 芳田はまだ桜も咲いていない頃から、そんなことを考えている。これが夏へと向かう道筋のためだ。その入口と言うほど暖かくはないが、春の陽射しが夏を思わせる。
 そんなに急いで夏になっても仕方がないので、今は季節の変わり目を楽しんでいる。春の日もあれば冬の日もある。昼間は春だが、日が落ちると冬になったりする。
 その日、ぶらりと散歩に出て、そんなことを思った。他に思うことがないのだろう。それはそれなりにいいこと。これは暇なためではない。暇で暇で仕方のない日々でも、いろいろと考えることがある。それで季節どころの話ではなく、まして散歩などという悠長なことをしている場合ではない。そんな気にもなれないだろう。
 桜はまだ蕾。しかし茶色い塊の中に青いもの出てきている。桜色ではなく、青いのだ。葉は花が咲いたあとだろう。だから、青い皮なのかと考えた。そういうことに注目すること自体が呑気な証拠。
 田の畦、今は畑になっているが、そこに春の七草のどれかが生えているのだろう。草や虫が地面から出てくる季節。そのため、草の匂い。土の匂いがしてくる。掘ればミミズぐらいは出てくるかもしれない。草むしりのとき、色々な虫が根の土に付いてきたことがある。
「芳田様、時節到来かと思われます。そろそろご準備を」
「そうか」
 畦でぽつんと立っていた芳田は静かに頷いた。
 水田の準備をそろそろ始める時節ではない。
 呼び出しに来た若武者は、用件だけいうと、さっさと引き上げた。
 北沢屋敷に集まれということだろう。
 ここからは少し遠いが、丘を回り込めば、それほどかからない。近道だ。ただ丘裾の小道なので、歩きにくい。
 芳田は準備をしていない。
 顔だけ出せばよかろう。と、そのまま北沢屋敷へ向かうことにした。
 もうすぐ、ここも変わる。明日から変わるだろう。この決行が成功すれば。そしてほぼ成功する。何故なら芳田が加わっているため。
 だが、芳田はどちらでもよかった。担がれたのだ。
 丘裾の小道は荒れていた。これなら丘の上の小道の方がよかったのではないかと後悔した。
 しかし、上り下りは面倒。
 近道のはずが遅くなり、次席家老の北沢屋敷の近くまで来たのだが、様子がおかしい。役人が走り、騎馬武者が巡回している。
 ああ、これはしくじったなと芳田は悟り、元来た小道へ戻った。
 あとはとぼけるだけとぼけた。
 行く夏を惜しむ、などと言いだした。これが効いたようだ。
 それ以上詮議を受けなかった。
 
   了

 


2021年3月11日

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