小説 川崎サイト

 

天声人語に落ちる


 作田はご無沙汰状態の人も多いが、ご無沙汰状態の町や通りも多い。いずれも用がないので、ご無沙汰状態になっているのだろう。
 たまに用事ができ、無沙汰していた町や、また人と会う。挨拶はご無沙汰していましたとなるが、風景ではそれがない。まあ、風景が喋り出すと五月蠅いが。
 それに風景の中のどの箇所が喋っているのだろうか。これは特定できない。実際にはその必要もない。有り得ないことなので。
 もし有り得るとすれば、風景からの声は作田の頭から発せられているのだろう。当然耳で聞いているわけではなく、もっとダイレクトに。
 風景からの声、天からの声、発しているのは作田。
 特に多いのが天からの声。その声は聞こえてくるので、作田自身が発しているとは作田には分からない。独り言や呟きとは違う質。
 しかし、天声は本当に作田から出ているのか、または発生源が本当に天からの声なのかは曖昧。だが、よく聞こえてくる。
 もし作田が発しているのなら、天声人語。神ではなく、人。
 しかし、天の声を人が代わって発していることもある。これは太古からあるだろう。神のお告げだ。しかも人語なので、人に分かる言葉。猫語では分からない。
 ただし、作田は外国語ができない。日本語しか分からない。すると、天声人語の言語は日本語に限られてしまう。神が日本人なのかどうかは分からないが、日本語が話せる神だろう。
 しかし、その天からの声の中に、作田しか知らない造語が入っていることもある。これは臭い。やはり発しているのは作田だ。
 ただ、作田にも分かるような言葉に神が翻訳して語っているのかもしれないが。
 それなら神は多言語、個人言語まで知っているのだろうか。それ以前に神は言葉を使うものなのかどうかだ。
 喋くり回る神は、あまり有りがたいとは思われないだろう。黙っている方が賢い。余計なことを言って揚げ足を取られるより。しかし語らないと伝わらない。
 その日、作田は久しぶりに少し離れた町に出掛けた。
 するとやはり、ご無沙汰でしたなあ、と町の声が聞こえてきた。近くに人はいない。
 やはり天の声は作田自分が発しているようだ。ただ、発する気はないのだが。
 
   了
 
 


2021年4月9日

小説 川崎サイト