小説 川崎サイト

 

一泊旅行のエピソード


「君、旅行に行ったんだってねえ」
「はい、久しぶりです。一人旅です」
「出不精な君にしては珍しい。どういう風の吹き回しなんだ。何か目的でもあったのかい」
「いえ、長い間、旅行に行っていないので、このあたりで行っておかないと、と思いまして」
「それが目的なのか」
「はい、十分目的になります。久しぶりだし、そういうことができる時間もできましたので」
「そりゃいい。行き当たりばったりの気ままな旅。それはいいねえ。で、何処に行ったんだ」
「吉田温泉です」
「そこに決めた理由は」
「観光ポスターを見て、思い付きました」
「じゃ、何処でもよかったんだね」
「それほど遠くないし、長距離バスが出ていますから、行きやすいと思いまして」
「ポスターは何処で見たの」
「長距離バスのターミナルです。その前をよく通っているのです。それで偶然見ました」
「で、どうだった」
「特に何もありませんでした」
「あ、そう」
「気晴らしにはなりましたが、さっと行って、さっと帰って来ただけです。枕が変わる程度ですが、まあ、旅行先なら普通のことなので」
「旅は見聞を広める」
「だから、特に見るようなものはありませんでした。誰とも話していませんし、目も耳もそれほどのことはなかったので、物足りなく思ったほどです」
「しかし、近所を散歩しているだけでも、それなりの物語のような、エピソードの断片を見るようなことがある。一泊旅行ならもっと色々あってもおかしくない。大きな事件に巻き込まれるとかはないだろうが、新たな発見などがあるはず」
「何もありませんでした」
「しかし、何かあったでしょ」
「子供が転んでいました」
「ほら、あったじゃないか」
「すぐに親が起こしたので、それで終わりです」
「そうか」
「帰りのバスの中で、横に座った女の人が、ずっと下を向いて辛そうでした」
「ほら、あるじゃないか」
「しんどそうなので、疲れたのかと思いました。僕も眠くなってきたので寝ました。高速ですから、風景もよく見えませんし」
「そこで話しかければ物語が発生した」
「そうなんですか」
「そうだよ」
「温泉宿の夕食はキャンセルして、食べに出ました」
「そりゃいい」
「通りに飲み屋があったので、入りました。満員なので、相席になりました」
「ほうほう」
「隣の人が何か話しかけてきましたが、無視しました」
「ううむ」
「僕は飲めないので、うな重を食べました。それに集中したかったのです」
「あ、そう」
「まあ、その程度です。これといったこともなく、すっと行き、すっと戻ってきた程度です。でも久しぶりに一泊旅行を果たせたので、満足しています」
「私など、旅行に出ると、エピソードをごっそり土産に持って帰るんだがね」
「あ、そうですか」
 
   了


 


2021年4月21日

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