小説 川崎サイト

 

避暑地の山荘


「今朝も暑いですねえ」
「朝からこの暑さではまいります」
「夏本番なので、こんなものでしょ」
「そうですねえ」
「夏場はやはり夏休みを取るのがいいのですが、休んでいても暑い。だから避暑地にでも出掛けるしかありませんよ」
「避暑用の別荘でも」
「いや、小屋です。山小屋です。私のものじゃないですよ。粗末な山荘です。夏山用のね。しかし、人が少ないので安いのですよ」
「山荘ですか」
「涼しいですよ」
「じゃ、そこへ今季も行かれると」
「はやばやとね。山の秋は早いですから、早い目に行くのがいいのです」
「結構な身分ですねえ」
「いえ、宿泊料は安いですし、山の中なので、お金も使いませんよ」
「しかし、一夏、そんな山籠もりでは退屈でしょ」
「実は籠もりに行くのです。お籠もり堂のようにね」
「じゃ、そこで何かを祈るとか、願うとか、または何かの修行ですか」
「いや、何もしないで、山荘から山々や空、海も晴れておれば見えますよ」
「でも、毎日じゃ、飽きるでしょ」
「たまには、山の中を歩きます。木陰を選んでね。決して登山じゃないですよ。ハイキングでもピクニックでもない。ただの散歩です」
「そういうの、ある意味で理想的な夏の過ごし方ですねえ。仕事があると、できません。それに、僕なんか、その状態では退屈してしまいます」
「実は出るのです」
「何が」
「出るべきものが」
「はあ」
「だから、宿泊料が安いのです」
「幽霊ですね」
「いや、それがよく分からない。去年も行ってましたが、まだ見たことがない」
「じゃ、噂なのですね」
「しかし、火のないところに煙は立たない」
「出る理由があるのですね。過去に何かあったとか」
「そうです。山荘に泊まり、翌朝頂上を目指した人がいるのです。それほど高い山じゃありませんが、連山。つまり一度じゃ登り切れないので、分けて登ったりするのです。その人、そのまま消えました」
「遭難ですか」
「そんな届けや事故はありませんでした」
「そうなんですか」
「消えたのです。出たまま」
「じゃ、別の降り口から下山したのでは」
「山荘に荷物の一部が残っているのです。邪魔なので、置いていったのでしょうねえ。山では使わないような物です。そして、戻ってくる予定でした」
「はあ」
「出るというのは、その人らしいのです。いや、出るのじゃなく、戻ってくる」
「はあ」
「その部屋が特に安いのです。私はいつもそこに泊まります」
「それは噂でしょ」
「そうだと思いますよ。数年続けて行ってますが、変わったところはありません」
「出ているのに、気付かないだけかもしれませんよ」
「そうですねえ」
 
   了



2021年7月3日

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