小説 川崎サイト

 

心頭滅却すれば


「暑いですなあ、三十五度越えですよ。今年初めてじゃないですか。こりゃ炎天下、外に出られない」
「しかし、ここまで来たじゃないですか。一応、真夏の空の下を歩いて来られたのですから大丈夫ですよ。真冬から、いきなり真夏なら別ですが、徐々に暑くなっていくので、身体も準備していますよ。急激な高温じゃない」
「でも、暑くて、もうフラフラだ。これはえらい。もう日中の外出は控えます」
「そうですか。それは残念」
「あなた、大丈夫なんですか、寒がりで暑がりだと言ってましたが」
「今年の夏は、意外と大丈夫なんです。不思議と、今日なども平気ですよ。炎天下でもしばらくは耐えられます。風景なんか見たりして、まだ余裕があります」
「どうかされたのですか、病気では」
「いえいえ」
「精神的なものですか」
「さあ」
「心頭滅却すれば、ですか」
「それじゃ、何も考えないことになりますよ。それに暑いと、やはり暑いです。意識を働かせないと、死にますよ。熱で」
「でも、滅却すれば、火もまた涼しいのでしょ。だから、冷房効果がある」
「気持ちの上はそうでも、焼き肉になりますよ。それでもまだ、そんなこと言ってられますかね」
「おそらく暑さや痛さなどの苦痛がないんじゃないですか。麻酔がかかったように」
「なるほど、でも、あの禅僧。かなりの高僧でしょ。どうして焼かれたんでしょう」
「武田の家臣を匿っていたからですよ。それを出せば問題はなかった」
「誰に」
「誰だか忘れましたが、織田方です」
「あの名文句、誰が聞いたんでしょうねえ」
「織田方の侍でしょ。高僧だけじゃなく、全員焼け死んでいたとか。その中には、暑い暑いと騒いでいた若い僧もいたので、あの名文句が出たとか。あくまでも言い伝えですがね」
「武田の家臣を引き渡してやれば、若い僧も巻き添いにならなかった」
「まあ、あのお寺、武田の世話になっていましたから、義理があるんでしょ」
「なるほど」
「もし引き渡しておれば、お寺も坊さん達も無事だったかもしれませんが、名は残さなかったでしょ」
「僕は名を残さなくてもいいので、弟子の坊さん達を助けたいですねえ。どちらが薄情なんでしょ。武田の家臣、捕まっても殺されるとは限らない」
「まあ、それはどちらから考えるかで変わってきますよ。でも心頭滅却すれば云々は、それを言った人の名は知らなくても、たまに聞きますよね。そういう言葉の上で、生き続けている」
「でも、一緒に燃やされた坊さんの名は分かりませんねえ」
「まあね」
「おっと、長居した。戻りは、また暑い」
「心頭滅却して下さい」
「できません」
「そうですね。無理ですね」
 
   了



2021年7月22日

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