小説 川崎サイト

 

幸せの香り

川崎ゆきお



「うかうかしておると幸せの甘き香りが去ってゆく。分かるかね、そこな青年」
 見るからに怪しげな襤褸着をまとった男が諭す。ホームレスにしては手ぶらだ。近くに巣があるのだろうか。
 まだ農家の残る住宅地で、ホームレスがテントを張れるような場所はない。
 青年は予備校の帰り道、神社の境内を横切る最中だった。
「幸せは甘いのですか?」
 青年が聞き返した。
 もう、その時点でこの青年は乗ってしまったことになる。
「そう、甘き香りじゃ」
「あなたは幸せが去ったのですか?」
「そうよ」
「それで、ホームレスですか?」
「誰が?」
「あなたです」
「そう見えるか」
「はい」
「君は話が分かる青年だ。今時珍しい」
「そうですか」
「青春とはそういうものかもしれん。もっと大人になれば、わしが目の前にいても無視するわい。見て見ぬふりをするわい。触らぬ神に祟りなし。あやしきものには近寄らず。それで幸福を取り逃がすのじゃ。しかし青年は違う。現実と夢との区別が明快ではない。あるにはあるが、ガードが緩い」
「宗教関係の人ですか?」
「アジアの僧と呼ぶがよい」
「デモ、ここは神社ですよ」
「しばし、立ち寄っただけよ。ここには神などおらぬ。おわすればわしはすぐさま立ち去るであろう」
「分かりました」
「何が分かった? 幸せの甘き香りが分かったか」
「いえ、あなたは演劇関係の人じゃないですか?」
「違う」
「知らない人を相手に路上練習をしているんだ」
「ほほほほほ」
 男の下品な笑い声に驚いたのか鳩が飛び立つ。
「和しは幸せの甘き香りを追い続ける行者だ」
「見つかりましたか?」
「君はポンポンよく反応してくれる。君こそ劇団員じゃないのかね」
「違います。ただの予備校制です」
「人生の目的はひとつだ。幸せの甘き香りを取り逃がさぬことよ」
 男はそれだけ言うと立ち去った。
 青年は、ああいう存在で生きている人間もいるのだなあと、心に刻んだ。
 
   了


2007年09月29日

小説 川崎サイト