小説 川崎サイト

 

五井狸


「五井荘とは、変わった地名ですねえ」
「五井卿の荘園だった場所でしょ」
「貴族の領地」
「そうです」
「住宅地なので、ピンときませんねえ」
「当時は、ピンときたのでしょ。分かりやすい地名だと」
「あなた、この辺りに詳しいのですか」
「一寸調べただけです」
「当時の何かが残っていると?」
「昔は田んぼがあり、農家があったのでしょ。別にここだけの特徴ではなく、年貢の納めどころが五井家だっただけ」
「五井卿の土地だったので、今でも、五井さんがいるかも」
「いや、狭いですここは、何かの恩賞のようなもので、もらったのでしょ」
「五井卿は、その後、どうなりました」
「何も残っていません」
「絶えたのでしょうな」
「または、名を変えないといけない事情でもできたのかも。それなら、まだ続いているはずですが」
「古い農家があれば、そこで聞けば分かるかもしれませんよ」
「もうありません」
「五井家はその後、歴史に登場しますか」
「少し調べましたが、別の五井家なら、商人がいますが、これは、ある藩の記録に、五井家と取引したという程度です」
「もの凄く、追跡しているじゃありませんか」
「三井家ならいいのですがね。貴族としての五井家は、それ以上追えません」
「しかし、あなたは、ここにいる」
「え」
「五井家について、調べに来たのでしょ」
「いや、この先のお寺へ行くところです。その通り道です」
「あ、そう」
「で、あなたは」
「何でもいいのです。珍しい地名のある場所を回っている人間です」
「で、今日は五井荘なんですね」
「そうです。でも、ただの住宅地のある平地。これは何ともなりません。まあ、いいのです。目的地ができただけで。そして」
「そして、何ですか」
「詳しくは調べようとは思いませんが、由来ぐらいは知りたいと。それで、あなたにお訊ねしたのです。でも、土地の人じゃなかったのですね」
「そうです。通りがかりの人間です」
「二人とも、人間ですね」
「はい、確かに」
「この先のお寺って、狸のお寺でしょ」
「よくご存じで」
「五井荘で失敗したとき、行こうかと思ったので、少しだけ調べました」
「御本尊じゃないですよ。でも狸を祭ってある」
「それそれ、だから、化かすやつがこの辺りに出てもおかしくない」
「それはおかしいでしょ」
「そうですねえ。今どき狸に化かされるような人なんて、聞いたことがない」
「化かされているのに気付かないだけだったして」
「ははは、そりゃいい」
「じゃ、一緒に行きますか、そのお寺へ」
「そうですね。お供します」
「はい」
「でもあなた、人間でしょうねえ」
「あなたこそ」
 
   了


 


2021年9月24日

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