小説 川崎サイト

 

落とし穴


「今朝のコーヒーは美味しい」
 脇田は喫茶店でモーニングを食べながら、一口飲んだコーヒーの味を感じた。毎朝出勤前に飲んでいるのだが、今朝は良い。
 悪いときもあり、そのときはトーストをかじるときも、妙に歯触りが悪い。それにカサカサし、歯茎が痛い。これが良い日ならカリッとしたトーストの食感が楽しめる。今朝は、トーストもうまい。
 また、ゆで卵の殻を剥くとき、その断面が刃物のように指に突き刺さることがある。今朝は上手く剥けた。塩を振りかけるのだが、その塩味も嫌味なことがある。嫌な味ではなく、塩気が五月蠅いのだ。今朝はそれもない。
 これは体調が良いのだろう。胃腸の調子は口に出るのかもしれない。味覚とか、口や唇の荒れとかで。今朝は、それがない。
 脇田は少しは調子が悪いところがあってもいいのではないかと、取り越し苦労をした。一体どんな苦労が待ち受けているのかは分からないが、脇田はいつも分からなさの中にいる。
 分かる必要のないことまで分かろうとするので、分からないままのネタが多すぎる。だから、神経質なのだ。これが裏目に出る。
 細やかな神経、そして先を見通す目がある。そんな遠目など効かないが、気を回すのが早いし、遠い先々まで考えている。
 だから、今朝の調子、良すぎるのがおかしい、となる。
 今朝はこれから、そのまま得意先へ向かう。特に難しい客ではなく、普段通りしておれば普段通り。そのため、プレッシャーはかからない相手。
 だが、そういう相手ほどややこしいことになりやすい。油断しているためではないが、何もないはずなのだが、何かが起こる。だからその原因が読めない。
 これも気の使いすぎで、普通通りに進み、普通通りに終わる方が多い。ただ、たまにトラブることがある。それが目立つためだろう。
 今朝の喫茶店でのモーニングサービスは完璧だ。ついでに飲んだお冷やも美味しい。そしてタバコも旨い。
 ここまで揃うと、嫌なことがこの先、起こるのではないかと心配になる。他の人とは逆かもしれない。今日は調子が良いので、一日良い感じで臨めると思うのが普通だろう。それを一歩踏み込んで考えてしまうのが脇田の癖。だから、これは性癖なのだ。外に原因はない。
 喫茶店はターミナル駅にある。得意先へ向かうため改札をすっと抜け、電車を待つ。既に朝の混雑時は過ぎており、上手くいけば座れる。
 一つだけ空いているスペースがある。狭くはない。詰めてもらう必要はない。
 これも怪しい。今日はできすぎている。やはり、何か落とし穴があるに違いない。そう思いながら座り、少し遠いので、居眠りをする。
 居眠りの寝付きも良い。すっと寝入れそうになる。これは頭の中がわさわさしているとき、眠れないもの。だから、ここでも調子が良い。ベストコンディション。
 そして目的駅のアナウンスで目が覚めた。その手前の駅でもアナウンスされたが、そのときはよく聞かないまま、寝てしまった。
 丁度いい感じで居眠りが終了。理想的。やはりこれは何かある。
 そして得意先まで歩く。雑居ビル内にあるのだが、その通りは入り組んでおり、よく迷うのだが、それもなく、三階の事務所のドアをノックした。
 そして商談の続きを始めたのだが、プレッシャーのかからない相手なので、問題なく、済ませることができた。普通の相手ほど怖いというが、心配はなかった。落とし穴はここではない。
 出足から、調子が良い。そして今日の仕事も、そのあと色々とあったが、無事だった。
 そして、帰路、近道の路地に入り込む。そこは私道なのだが、普通の人が普通に通っている。僅かな長さで、しかも狭いし、舗装もされていない。土を踏む感じが好きで、脇田はここを通るのが好き。
 そして外灯が暗いので、足元が危ない。
 落とし穴。あるとすれば、ここだろう。
 しかし、わざわざそんな穴を掘るような人がいるのだろうか。
 そして用心しながら、一歩一歩を進み、私道を抜けた。
 落とし穴があるとすれば、その道しかない。あとは舗装された道で、無事、家まで戻れた。
 そしてドアを開け、中に入った瞬間、落とし穴にはまった。というようなことは当然、ない。
 
   了


2021年12月5日

 

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