小説 川崎サイト

 

古歌の寒稽古


 冬の雨。これは雪よりも冷たいかもしれない。しかし、気温は雪の日よりも高いだろう。その地方で雪が降るのは希なので、本当の寒さを岸田は知らない。
「雨の中、お出掛けですか、岸田さん」
「寒稽古です」
「何の」
「歌のです」
「カラオケの」
「いえ、古歌です」
「ああ、懐メロねえ」
「万葉集以前の歌です」
「ああ、なるほど。それで寒稽古とは、何となく分かります。声を出すのでしょ。歌うとき」
「そうです。外でやります。笹岡まで行って」
「あの岡、登り口、雨だとぬかるんで大変ですよ」
「あそこまで行かないと、聞かれてしまいますので」
「詩吟とかを唸っている人もいますよ。あれは丸聞こえです」
「人に聞かせる歌なので、それでいいのです。私のは万葉以前の古歌。そして、歌集にはありません。選に漏れたのでしょう。そういうのを拾い集めたものがありましてね」
「それは珍しいと言うより、価値が分かりませんが」
「殆どが意味不明の内容なんです」
「じゃ、伝わらない」
「音だけです」
「ほう」
「その音がいいのです」
「歌のない歌謡曲のようなものですな。演奏だけの」
「あれは、歌詞に合わせたメロディーでしょ。だから、知っている歌なら、歌詞が頭に思い浮かぶ」
「はい」
「私が習っているのは、音だけで、意味が分からないし、意味もないのです」
「じゃ、呪文のような」
「そうそう、そういう時代と重なっていたのかもしれませんねえ。まあ、聞いても意味など誰も知らない真言のようなものです。意味がないお経のようなもの」
「それを今から、練習に」
「そうです。寒稽古です」
「岸田さんにはそんな趣味があるとは知らなんだ」
「怪しそうな信仰をやっていると、誤解されそうなので、自分からは言いませんがね」
「世の中には色々な趣味があるものだ」
「あなたはどうなのです」
「それよりも、どうして寒稽古なんですか」
「寒いとき、気合いが入りますから、音の出もいいのです。しかし、雨の影響で、一寸分かりませんがね。傘を差して、変な言葉を発するのですから確かにおかしな人だと思われますが、笹岡なら人が来ないので、大丈夫なんです」
「はい、了解しました」
 
   了

 

   

 

 


2022年1月26日

 

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