小説 川崎サイト

 

水炭画


 畑仕事から戻るとき、夕日を見る。山間の小さな畑。水田は出来ない。山中。村はない。そこからは村里は見えず、山ばかり。一山越えれば、里が見えるのだが、盆地の外れ。
 炭焼き小屋よりも、さらに奥に入った山間。下からは見えない。獣道に近いところを下りていくと、田宮の小屋がある。庵と言っているが、ただの掘っ立て小屋。
 里人がたまに入り込むことがある。しかし、近付いたりはしない。田宮の存在を知っているからだ。ああここが絵師田宮の家かと。普通は用がない。
 今日の夕焼けは見事だ。絵に描いた以上に見事。これなら絵などいらないだろう。あの色は出せない。なぜならいくら絵の具を混ぜても、混ぜるほど色が濁り、透明感が出ない。それに自然の風景には絵は勝てない。先ずはその大きさだ。
 殿中絵師だった田宮は今は墨絵を描いている。ただ、炭焼き小屋で頂戴した炭なので、絵には合わない。
 黒が弱く、粒が混ざっていたりする。それを墨絵ではなく、炭絵と呼んでいる。だから水墨画ではなく、水炭画。
 お抱え絵師にまで上ったが、しばらくすると、下ってしまった。派手な襖絵や屏風を書くのが嫌になった。それにその地位、面倒なことが多い。
 絵師になろうとしたのは、自由になりたかったため、元々は武家。ただ身分の低い家柄で、兄弟も多かった。
 炭焼きとか樵や猟師がたまに訪れる。そのとき、絵を渡す。売れれば、米が手に入る。野菜は畑があるので、問題はない。当然猟師もいるので、肉もある。
 畑仕事の合間、絵も書くが、真剣も振り回す。自分で型を作っているようで、一連の流れがある。その動作を繰り返す練習。他意はなく、運動。
 しかし、何処で居場所が分かったのか、弟子にしてくれと訪れる若者もいる。
 大概は追い返す。教えるのが嫌なのだ。
 人里離れた山中だが接触はそれなりにある。
 田宮もたまに里へ下り、商家で買い物をすることもある。代金は絵で、ということはない。
 炭焼き小屋の炭のクズで書いたものなど値打ちがないわけではないが、書いたものは適当に売れるので、その必要がないのだろう。
 その後、田宮のもとに、とんでも話が舞い込み、大活躍する。ということは今のところ、ない。
 
   了


2022年2月10日

 

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