小説 川崎サイト

 

残念


 通り過ぎたものの中で、いいものがあるかもしれない。
 当時は気付かなかった。よくあるものとして、またそれほど優れているとは思っていなかったもの。
 当然そういうものは噂にも上がらなかったし、またその後、見直され、浮上することもない。話題に上がらないので、表には出てこない。
 それほど古くはなく、新しくもない。さっと乗り換えられたもの。いっときの通過的なもの。だから、さっと流してしまう。見逃してしまう。注目するようなところがないため。
 それよりも新しいものへ向かう。少し前では中途半端。少し先を行きそうなものに向かいやすい。
 しかし、気持ちに余裕ができ、少しだけ古いものを調べていくうちに、終わってしまったものなのだが、意外といけるのではないかと思うようなものがある。
 たとえば幕末と明治維新。江戸時代の最後の最後にあったようなもの。そうシステムは終わり、御維新になる。フォーマットされ、塗り替えられる。真新しく。
 しかし、江戸幕府末期の遺物の中に、意外と進んでいたものもある。もう顧みられることもなく、すっと通過した。それは古いと。
 だが江戸末期と明治維新、時期は同じだ。
 そういうものを高砂は体験した。明治維新前後の話ではなく、今の話で。
 取りこぼしたものが多い。何かが切り替わるとき、一緒に消えたのだろう。ただそれは懐古趣味ではない。実際に活用できるような事柄。
 未来、先々の事柄よりも、ほんの少し前の事柄の方が豊かではないか。
 宝物は過去にあるというわけではないが、いずれそういう過去に残念な終わり方をしたものが復活するかもしれない。
 当時は相手にされなかったようなものの中に、宝物が混ざっていたりする。
 高砂は少し前のものに優れたものがあったことを知り、それを生かせないかと考えた。
 それはもう特定のものだけの話に限らず、他でも当てはめることが出来るのではないかと。
 だが、高砂だけがそう思っても、世の中の流れとは違っていると、個人的な思いだけで終わるのだが、それはそれでいい。
 過去に亡びたものの面影が残っているものに興味がいったりする。もう過去は復活しない。だが、過去のいいものを思い起こさせるような今のものもある。形を変え姿を変えて。
 以前にあったが、消えてしまった残念なもの。だからこそ念が残るのだろう。
 
   了


2022年2月13日

 

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