小説 川崎サイト

 

音なしの人


 一寸、気の抜けたような日がある。
 何かが一段落したのか、島村は気抜け人のようになっている。緊張の糸が切れたためだろう。しかし、何に緊張していたのかは傍目では分からない。
 ただ、活力に満ち満ちたような顔付きをしていたのは他人からも顔付きではなく態度で分かる。
 何が原因なのかまでは分からないが、それは言わないため。
 そして目付きも穏やかになっているというが、目もとを見ても、実際には分からない。泣き顔と笑い顔の区別が付かなかったりする。その状況から笑っている、辛そうにしていると、分かる程度。
 そのため、それが分かるのは顔色ではない。顔の色が変化するのなら、分かりやすいが、青ざめた顔といっても、カメレオンのように青い色になるわけではない。ただ赤くなることは分かる。青の場合、赤味が抜ける程度だろうか。
 そして肌色は肌色のまま。その僅かな違いが分かる程度だが照明によっても違ってくる。
 これも状況と関係し、おそらく青ざめていると、青を持ってくる。知らなければ、顔色などは見ない。
 島村が穏やかな顔色になり、表情になっていても気付かれないことがある。そういう目で見ないためだ。
 ましてや目付きだけでは分からない。最初から穏やかそうな目付きの人もいるし、険しい形をしている人もいる。
 では、そういう目付きの人はいつもそういう感情でいるのかというと、そうでもないだろう。見た目だ。
 さて、島村から糸の緊張が取れ、緩んだのだが、そんな糸があるわけではない。仮にあったとしても、何処から出ている糸だろうか。どんな太さで、どんな色なのか。
 しいて言えば心の糸。だから、見えない。では心は何処にあるのか、となると、これもよく分からない。そんな場所にある糸など、もっと分からない。
 しかし、それらは比喩で、そういうイメージなのだ。
 緊張の糸。張り詰めた気持ち。それが消えた島村なのだが、本当に気の抜けたような感じになった。パンパンに張っていた風船から、少し空気が抜けたのだろう。
 これもそんな風船が体内にあるわけではない。魚なら浮き袋が入っているかもしれないが、そういう話ではない。
 それで島村は楽になったのだが、響きが悪くなった。これはレスポンスとか、反応とかに近い。やはりピンと張った弦の方が響きがいいのだろうか。ゆるめすぎると、音などしなくなりそうだ。
 元々島村は音なしの島村として知られていた。大人しいのだ。音を立てないというより、あまり話さない人。音沙汰の音に近い。
 いったい島村はどんな理由で緊張していたのだろう。これは人には言えないことだったに違いない。
 
   了
 


 


2022年2月25日

 

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