小説 川崎サイト

 

式紙


 古い言葉は使われなくなるのだが、同じ意味を差す新しい言葉ではなく、その古い方の言葉なり、言い方に変えてみると、そのもの自身が古式めいてくる。
 古い時代の式、これは式場のなどの式であり、計算式でもある。古い尺度とか、古い格式の付け方とか。
 それにより、同じものを差しているのだが、ニュアンス、感じが違う。そしてどういう見方をしているのか分かってきたりする。その位置から見れば、そうなるような。だから捉え方の網が違う。同じものを捉えても。
 しかし、新しすぎる今風なものは「古式に乗っ取り」が通じなくなる。だが、昔なら、また別の式が当てられ、それを包むジャンルのようなものがあったのだろう。
 意味よりも、捉え方のその様式で、扱われ方が分かったりする。また、どう言うときに用いるのか、用いてはいけないのか。そうでないと式から外れる。
 式神を操る術者がいる。この術者は紙を扱う。式神を飛ばすというが、この人は紙を飛ばす。ただ、そんなに遠くまでは飛ばない。
 そして依頼者の要望により、紙の形を変える。これは紙芸で、ハサミ芸。式神の輪郭を巧みに切り取る。中はない。輪郭だけ。影絵にはちょうどだ。
 つまり、飛ばないが、送れる。ただ、後ろに光線を置いた程度では、それほど遠くまで影は伸びない。
 そのため本当に式神が飛ぶわけではなく、影が伸びるわけではない。
 だが、紙を紙飛行機のように飛ばしてもすぐに落ちるが、落ちたのは紙であり、神ではない。そのあとは神が引き受け、その先を飛ぶ。これが式神だ。
 神なので、見えない。そのため、何とでも言える。
 それで飛んで行った式神、その式神自身、意味を知らない。飛んだだけ。ただ、呪いたい相手の屋敷へ向かう。そのため、屋敷が見えるところからでないと飛ばせない。
 そうでないと式神は何処へ行けばいいのかが分からないので、適当に飛んでいるだけ。
 あとは屋敷内の誰に命中させるかだが、式神が見える程度の距離でないと相手がいる部屋とかは分からない。見えないので。
 それで、術者は依頼人なり、誰かに頼み、屋敷内に入ることを勧めている。そこが中継基地となり、目的とする相手がいる場所を式神に伝える。
 だが、その式神、近くにいるのだろうが、見えない。
 当然相手も、そういうのを予測している場合は結界を張る。
 それらに感しての実体は何一つない。式神の式紙に具体性はあるが、それがそこまで飛ぶわけではない。
 呪詛は、呪詛されていることを相手が知ったとき、呪詛の効果が出る。
 だから、今では一方通行なので、効かないだろう。
 
   了




2022年3月25日

 

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