小説 川崎サイト

 

桜酒


 妖怪博士は山桜を見に行き、そこに妖精が飛び交っているという嘘のような嘘の話を信じないで、そのまま誘われるがまま編集者と見に行ったのだが、案の定、そんな絵に描いたようなものはいなかった。
 また、そういう絵もないかもしれない。妖精と桜の組み合わせは逆に珍しい。妖精のイメージは北欧で寒い地域。これもまたただの印象で、南方の暑いところにもいるだろう。ただ、それを妖精と言っているかどうか分からないが。花咲か爺を妖精と見立てればいいのかもしれないが。
 さて、妖精の森へ車で行ったのだが、その戻り道、もう急ぐことはないので、高速には上がらず、一般道をのんびりと走っていた。
 編集者が運転しているのだが、無口。あまり車に乗っていないため、高速は怖いとか。
 理由を聞くと、スピードらしい。そのスピードで何かと接触すれば、これは厳しいことになるだろう。そのため下の道をゆっくりと走っている。
 周囲は山また山で、よくこんなところに高速を通したものだと思える程。その下にはもう一般道はなく、殆ど林道に近い。
 たまに小屋などがあり、村落らしいものもあるが、点在している感じで、纏まった戸数はない。
 しばらく走っていると、ドライブインがある。ただのお食事処だが、車が行き交う場所ではないので、客は地元の人だろうか。
 このドライブインへ裏から入ったことになる。表からだと町外れの店になるだろう。
 小さな食堂程度だが、敷地は広く、入口の駐車場に古いバイクが何台も止まっている。錆び付いているのもある。
 担当編集者は運転で疲れたらしく、すぐに駐車場に入った。
 そこで亭主から聞いた話を、あとで妖怪博士は雑誌に掲載している。
 桜酒を作る猿の妖怪で、桜が咲く頃、どこからともなく現れた小さな猿。ニホンザルよりも遙かに小さい。リスぐらいだ。そのため、顔や仕草を見ないと、猿とは分からない。そんな野生の猿が国内にいるわけがないので、これがどうも妖怪らしい。ただ赤ちゃんのニホンザルかもしれないが。
 そして桜の花びらをむしり取り、それを集めたもので桜酒を作るとか。
 ドライブインの亭主の作り話かもしれないが、そういう猿を見た人はそれなりにいるらしい。人に見付かると、さっと逃げる。そのとき、集めた花びらを落とすこともあるので分かるようだ。
 だから急に桜の花が落ちてきたときは、この妖怪が落としたのだと言われているが、この亭主の範囲内での話だろう。
 また梅酒ならあるが、桜酒などあるのだろうか。ただ単に酒に桜の花びらを浮かべたものかもしれない。だが、花びら入りのどぶろくかもしれない。
 亭主によると、昔は花見で出す酒はこの猿酒だったとか。猿の顔や尻のように、赤い酒なのだ。
 その桜酒は家々で作るのだが、猿が作ったと言うことになっている。だから猿酒。
 それが本当のことだと説明するため、猿が花びらをちぎって集めているとなる。これが妖怪猿。
 亭主は、そんな話を興味深く聞いている妖怪博士に、一杯如何ですか、と進めた。
 妖怪博士は、頷いた。メニューにあるのだ。
 そして、亭主が出してきたのは、甘酒で、その上に桜の花びらがびっしりと乗っていた。
 この時期だけのようだ。
 この話を聞き、渓谷の奥の山桜の妖精よりも、花びらを集める猿の妖怪の方を気に入り、こちらを妖怪博士は書いた。
 そして、戻り道、村々を通過しているとき、桜が咲いているのを見て、そんな猿がいるかどうか、探してみた。
 そんなものは見つかるはずはないのだが、いても不思議ではない。
 この桜酒、猿酒の話は、かなり昔からあるようで、あの亭主も子供の頃に聞いたらしい。
 担当編集者は市街地に入ると、無口さがさらに増し、適当な営業所で車を返し、電車で帰ろうといいだした。
 妖怪博士は妖怪は見付からなかったが、山里で花見ができたので、満足したようだ。
 
   了

 


 


2022年4月4日

 

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