小説 川崎サイト

 

下北井町


 下北井町だけがあって、上北井町はないし、また北井町というのも下北井町の近くには見当たらない。ということは、この下というのは、上下や南北を表すのではなく、下北井という名なのかもしれない。
 下北井町。町だ。市街地の中の住宅地。その周辺の町も殆どが宅地。田畑や工場はないが、家庭菜園の畑や、小さな鉄工所や、車の修理工場がある。だが、工場という規模ではなく、個人家屋の敷地レベル。
 所々にマンションが建ち、長屋風の借家やボロアパートなども混ざっているが、いずれ消えてしまうだろう。既にそういう建物が取り壊されたのか、更地になっている箇所がある。
「少し無謀ですよ、高橋さん」
「そうかなあ」
「下北井の他に北井町があるとは思えませんし、ただの住宅地ですよ。このあたり、通勤圏ですから、そんなものでしょ」
 高橋は古地図を取り出した。
 平野部なので当然、昔は田畑が拡がる村。その中に北井の名がある。北井村。下も上もない。神社の絵も入っている。場所はもう特定出来ないが、村道跡は残っているので、そこまで行こうという話だ。
 同行は初心者の岩手君。高橋はこの道のベテランだが、古い時代のことに詳しいわけではない。妙なところへ行くのが趣味なのだ。だから知識としては素人。
 旧地図と新地図を重ね合わすと、村道が残っているのが分かる。くねくねと曲がった細い道だ。神社は三つの村道が交わるところ。
 その村道、二つまでは確認出来るが、もう一つは切れ切れになっていて、よく分からない。
 三つの村道が交わるところに神社。ただ、新地図にはそのマークはない。普通の家が建っている。
 ただ、その近くの家は大きい。敷地も広い。これは農家跡だろう。既に今風な家になっているが。
 それで辿り着いた角地。どうやら目の前にある何軒かの家の敷地が神社のあった場所のようだ。地図を重ね合わせば、おそらくそこだろうと思われる。
 古地図では北井天満宮となっている。天神さんだ。
 高橋は、そういう神社がどうのとかより、なぜ下北井になったのかを知りたい。そこにこの一帯の事情が分かるような気がする。下北井と名付け、しかも神社を残さなかった理由も。
「高橋さん、そんな詮索よりも、そのへんの大きな家の人に聞いた方が早いですよ。きっと地の人だと思いますから」
「岩手君、それをやるとロマンが溶ける。解を得る前の妄想が大事なんだ。きっとつまらん事情で下北井の名になったんだ」
 それで、また二人は、そのあたりをウロウロしたのだが、手掛かりになるようなものなど見つからない。もっと以前ならあったかもしれないが、余計なものは整理されたのだろう。
 岩手君が散歩中の年寄りを捕まえて、聞いてみた。
 高橋は嫌な顔をしたが、そろそろ飽きてきたので、いい機会だったのかもしれない。
 下井さんというこのあたりの大地主が下北井と名付けるように当局と話し合ったらしいです。というのが解答だった。
 やはり上下の下ではなかったのだ。
 しかし、聞かなければ、謎と神秘の旧村が立ち現れたのだが。
 
   了
 


2022年5月25日

 

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