小説 川崎サイト

 

未来からの張り


 期待というのは未来にある。先のことだ。数秒後でもいい。一週間先でも来月でも、年末でもいいし来年でもいいし、数年後でもいい。
 ただ、期待なので、悪いことではない。いいこととか楽しいこととか、喜ばしいこととか、そちらの方だろう。
 なくてもかまわないようなものも多いが、そういうものほど楽だ。重大事に対しての期待は、外れると、がっかりするし、具体的な生活にも関わるし、また生き方にも関係してくる。
 ただ、そういう期待は、今、思うところの期待で、これは当然変わるが、そのつもりで備えたりする。その方が祭りの準備のように楽しい。
 先のことを今やっているようなもの。祭りそのものはもっと先だが、未来が今を動かしていることになる。これは普通だろう。特に言うほどのことではない。
 期待は予測でもある。未来予測と言うほど大袈裟なものではないが、期待感が減る場合は、予測が外れだしているときだろう。
 数ヶ月前の予測や予感で、それなりに身構えたり、準備をしたり、そのつもりでいたり、心がけたり、方針をそこで決めたりとかをしていても、しばらくすると、様子が変わってきたことが分かり、これでは期待出来ないと知ると、今も当然変わる。
 ただの予測や予感であっても、その影響を今、受ける。これは言うほどのことではない。普通にやっていること。
 期待とは喜ばしいことが起こる可能性のことだろう。それがどうして起こるかは、今が決めている。過去を参考にして。今は過去の集まりだが、すぐに未来も流れ込む。
 今を考える場合、過去はもう弄れないので、先のことを考えてしまうのだろう。この先、何が起こるかの方が過去のことをゴチャゴチャ考えるよりも、現実的だ。
 期待した未来、それは少し先だと、なかなかやってこない。その間、以前に予測した状態を維持しておれば、同じ期待感のまま、継続されるが、今というのはそれなりに動くので、以前の思いを維持させるのも大変かもしれない。事情が変わったりするため。これも言うほどのことではない。
 先々にあるところの期待などは夢まぼろしのようなところもあるのだが、その通りで、だから夢という。ただ、可能性のある夢だと感じている。
 青雲の志、これなどは夢に向かって進んでいた若者の図だが、もっと年をとると、そんな夢など、もう忘れているかもしれない。そんな夢のようなことは出来ないと知るため。
 ただ、そんな大層な人生規模の未来ではなく、ちょっとした楽しみ程度の夢ならいくらでも転がっている。
 ただ、それらにはなかなか興味がいかない場合もある。そんな小さな夢など果たしても、何ともならないと思うため。
 夢や期待、それらは日々生成、更新され続けている。過去と未来が出合う今。
 期待出来なくなったものは、もう仕方がないので、別のものを探したりする。未来からの引っ張りがないと、張りが出ないためだろう。
 
   了




2022年6月29日

 

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