小説 川崎サイト

 

適当

 
 軽く考えていると、考えが足りない、思慮不足と言われ、深く考えると、考えすぎだと言われる。
 神岡はいつもそんな感じで、中間がない。しかし、軽く考えた場合でも、もの凄く軽いわけではない。また考えすぎた場合でも、さらにもっと深く考えることは出来るのだが、そこで止めている。
 だから両極端ではなく、中間なのだ。ただ、どちらにかに明らかに傾いていることには変わりはない。
 これは物事にもよる。殆ど自動的にやっていることもあり、考える必要がないこと。既に決まっているので、ああしよう、こうしようということは必要ではない。これが一番楽。
 ただ、人から頼まれたことでは、相手の思惑があるので、考えるレベルが違う。そこを押さえておけば、軽く考えればいいのか重く受け取ればいいのかが分かる。相手に合わせる。
 ただ、神岡は相手を甘く見る場合があり、本当なら深く考えないといけないのに、軽く済ませてしまう。これは相手にもよる。だから相手により変わるし、事柄によっても違う。いつも同じ方法ではない。
 当然、そこまで考える必要はないのだが、相手により丁寧に考えることがある。このばらつきは何だろうかと神岡は思うのだが、そうなるのだから仕方がない。
 どちらにしてもスイッチの切り替えで、何とでもコントロールできる。だから神岡は軽く考えることも出来るし、熟考することも出来る。問題はそのスイッチがどうして入るのか。それは自動的に入ってしまうようで、勝手に入ってしまう。この人とか、この事柄では、このスイッチと。
 そしてスイッチを必要としないことも多くあり、それは何も考えないでやってしまう。これは楽で良いが、そんな状態ばかりではなく、また、本当にそれでいいのかとスイッチが入る前に考えることもある。
 神岡は思ったり考えたりするのが面倒な面があり、それこそ適当でいいのだが、あとで文句を言われたり、また適当すぎて、失敗することもあるので、上手くいくとは限らない。
 ただ、相手とか対象がどう反応するのかは、予想できても、違う場合もある。これは地雷のようなもので、それを踏むことになる。
 地雷があるのなら、そのへんを歩き回って地雷を踏み倒してもいいのだが、それはおかしな行動になる。それでは考えが足りないと。または、考えすぎだとか。
 神岡はまた考えが足りず、適当にやったことで、考えすぎたのでは出来なかったことが可能な場合もある。
 深く考える人は逆に身動きが取れなかったりする。
 何かあったとき、その時はその時で何とかする程度が良いのだろう。
 
   了
 


2023年4月10日

 

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