小説 川崎サイト

 

苦海の師匠

 
「人生は苦じゃ」
「苦しそうですねえ」
「それが現実というもの」
「でも楽しいときもありますよ」
「それは一時のこと。またその楽しさが苦への入口。それが原因になり、苦が始まる。楽しさとは苦の種を仕込むようなもの」
「師匠。その考えが苦しいのではありませんか」
「先人が言っておること」
「その人、生まれたときから苦しかったのですか」
「ある日、人生の苦しさを知った。それまでは感じなかったのだがな」
「でも全てが苦なんていうのは言い過ぎでしょ。その先人だけの体験じゃないのですか」
「おぬしは苦しくないのか」
「そりゃ、腹が痛いときは苦しいですよ。それ以外にも苦しいことはよくあります」
「そうだろ。あるだろ。人生規模で」
「でも、ずっと苦しいわけじゃないですよ」
「苦しみから助かりたいか」
「だから、楽しいことも結構ありますから」
「苦を除きたくないか」
「じゃ、全部が全部楽しいことになるのですか」
「そうはならん。苦が減るだけで」
「でも、なくならないのでしょ」
「まあな、腹が痛ければ痛くなり、キツイと苦しくなる。それはまあいいだろう。摂理だ」
「でも、年をとると足が弱くなり、歩くのが辛くなりますよ。これは苦とは違うのですか」
「まあ、苦しいことは苦しいが、そんな深刻な話ではない」
「でも、歩くのが苦しいと、行くところも限られてきますよ。それによる影響も出るでしょ」
「まあ、何処に出掛けるかも問題じゃがな」
「師匠が苦しい苦しいというので、全部が全部苦しくなってきてしまいそうですが」
「わしの教えを聞くことじゃ。それが真実なんじゃ」
「じゃ、楽しいのは駄目ですか」
「あとが怖い」
「でも、苦しいあとの楽しさは格別ですよ。まるで、楽しむために苦しいことをやってきたように」
「どちらを先に立てるかじゃなあ。わしは苦を立てる」
「別に立てなくてもいいんじゃないのですか」
「それ以上言うな。刃向かうな。わしも苦しくなる」
「でも師匠の説は正しいのでしょ」
「ああ、先人が説いたことなのでな」
「じゃ、師匠の意見じゃない」
「まあな。しかし、当たっておると、わしは思うがな」
「頼りないですねえ。確信はないのですか」
「そう考えると苦しい。だから、やはり世の中、全てが苦しいのじゃ。苦海の海なのじゃ」
「それを助けてくれる舟があるのですね」
「そんなことをいう先人もおるが、苦の根本から考えた方がいい」
「半々でいいのではありませんか」
「しかし、おぬしを見ておると楽しそうだが、何故じゃ。まるで世の中楽しみで満ちているように見えるぞ」
「ああ、それは楽しいことを探しているからです。だから見付かりやすいのです。苦しいときも、その楽しいことを思い出すと、何とかなりますよ。師匠」
「もっと教えてくれんかのぅ」
「あ、はい」
 
   了

 



2023年5月5日

 

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