小説 川崎サイト

 

修行

 
 淡貝が修行の寺から戻ってきた。一年かかった。春先から春の終わり頃まで、夏は暑く、冬は寒かった。
 よく耐えたものだと思う。この体験が後日生きるだろう。あの厳しい修行に耐えてきたのだから。
 淡貝は生まれ育ちも寺。一歩も出ていない。いずれその寺を継ぐ。だから、一度も他所の飯を食ったことがない。
 修行の寺と言っても、牢屋に閉じ込められるわけではない。だが、好きな物は食べられない。行く前は、そんな気持ちだった。
 修行を終え、寺に戻るとお爺さんが本堂で寝そべっていた。長老と言われ、悟った人と言われている。
「戻ってきたかや」
 長老は寝そべったまま淡貝を出迎える。長老が寝転がっているところだけ畳が敷かれ、座布団が並べられている。敷き布団だとはみ出すため。それに蒲団を本堂に持ち込むのはいいが、出し入れが大変だ。本堂にはそういう押し入れがない。
「飯は食えたか」
「少なかったので、腹がすいてすいて」
「それはひもじい思いをしたのう。しかし、白い飯は食えたのだろ」
「はい。朝は朝がゆでしたが、朝にこそ沢山食べたかったです」
「そうじゃな。朝飯が少ないと、一日持たんからな。でも昼は出たのだろ」
「はい、昼は白いご飯です。夜は一品増えます。それはいいのですがご飯が少ない」
「苦労したのう」
「でも、途中で逃げ出さず、修行を果たしました。しかし、普段が修行だと言われ、何をするにも修行のうちとか。だから襟を正し、背筋をのばし」
 長老は寝そべって聞いている。始終体を動かす。ずっとしていると痛いのだろう。病んでいるわけではない。
「わしも本山の修行に立ち会ったことがあるがな、沢庵が硬い。歯が悪いので噛めんので何ともならん。だから舐めておった。しかし、沢庵を残すなど以ての外。それに少ないおかずだ。粥だけでは水臭くて食えん。だから沢庵は貴重。残す者などおらん。しかし、わしは噛めんし、飲み込むにしても大きすぎる。舐めても溶けんしな。当たり前だがな。それで、こっそりと懐に隠したよ」
「私は沢庵が嫌いになりました」
「そんな顔はしなかったじゃろうな」
「はい、有り難く頂いたような顔をしていました。これも修行ですから」
「そういえば、痩せたのう。しかし、りりしくなった。悟ったか」
「それはまだまだ」
「そうじゃろうなあ、青坊主が一年の修行で悟れる道理がない」
「はい」
「それよりも疲れたじゃろ。しばらく静養してなさい。滋養も付けてな」
「お爺様を見るとほっとします。お爺様のような僧侶もいるのかと思うと、先が明るいです。それにお爺様は長老なのでしょ」
「長く生きただけじゃよ。無理をせんかったからのう」
「荒行があると聞きますが、加わらなかったのですか」
「あれは命を縮める」
「私は荒行は無理なので、修行の寺に行きました」
「若いうちに行った方がいい。体力があるうちにな」
「でもお爺様はどうして修行の寺で沢庵を食べていたのですか。若かった頃ですか」
「若いうちなら沢庵も囓れた。一寸指導で行っておったのじゃよ。しかし、指導する者ができんことを指導するのじゃからなあ」
「そうでしたか」
「まあ、ご苦労様じゃったなあ。しばらくは遊んで暮らしなされ」
「はい、そのつもりです。お父様はどうしておられますか」
「あいつは駄目じゃ。真面目くさって、まるで坊主のようなことをしておる。あれでは将来が心配じゃ」
「私が修行に出たのは、お父様に言われただけで、本当は行きたくなかったのです」
「当たり前じゃ。あいつは出来が悪い」
「でもお父様は優しいお方ですよ」
「まだまだ真剣さが残っておる。そのうち悟るじゃろう。待つしかない」
「お爺様のように本堂で寝そべられるようになればいいのですね」
「そうじゃな」
「私には一生叶わぬことかもしれません」
「それはそれでいい。適当にやりなされ」
「はい」
 
   了
 

 


2023年5月8日

 

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