小説 川崎サイト

 

常識

 
 古代の歴史が変わり、常識が覆されることがあっても、明日のおかずが変わるわけではない。遠すぎるため。
 認識が変わるとしても、その認識が夕食に影響するわけではない。
 ただ、今までの常識が覆されるのは痛快。常識が変わる。しかし、古代の話となると、それを日常的には関係しないし、またそんなことが普段の話題には上らない。
 ただ、遺跡が発見され、常識では有り得ないものが見付かると、それはニュースになる。だが、これは報じてはまずいものは、出さないだろう。
 それが表に出たとしても、しばらくの間はニュースになる程度で、その話題性は今のものなので、今の話になる。ただ、今、起こっていることではなく、大昔に起こっていたこと。それでもその話が今蘇ったりする。ただし、直接の影響はないが。
 それで、認識が変わったとしても、どの程度それの影響を受けるだろうか。個人の生き方としては参考になる程度とも言えるし、人によっては何かを得たような気になり、何かの後押しになるかもしれない。逆にその新認識により、後退するかもしれない。
 先祖が名家だったことが分かっても、明日のおかずには影響しない。しかし、そのおかずレベルと名家とが合わなかったりするが、では名家ならどんなおかずを食べるのだろう。そんなことを急にやることもないだろう。
 過去のことが分かり、認識が変わるる場合でも、良い事ばかりとは限らない。それよりも、今が大事で、その今に役立つのなら、大いに認識を変えてもいいのだが、本人だけだったりする。
 世の中には常識とされているものがある。それが問題にならない限り、それに従うだろう。そこから外れた方が良いとか、覆した方が有利、ということがなければ。
 常識が嫌いな人でも、結構常識に従っていたりする。気が付かないだけで、かなり従順に。
 常識を疑えと言うことが常識になると。常識がなくなってしまう。これはあるとないとでは建て前だけであっても、あるほうが便利だろう。省略できるので。
 しかし、何もしなくても、常識は変わる。その中でも変わらないものはあるが、それは敢えて語る必要のないものだろう。常識以前にあるものかもしれない。
 
   了


  


2023年5月14日

 

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