小説 川崎サイト

 

 
 道の中にも道があり、寄り道の中にも寄り道がある。
 道を違える。これは本来の道とは違うところを行くことだが、その本来がそれほど本来らしくなく、仮の本来のようなものであれば、多少違えてもあまり変わりはない。
 どちらも間違った道かもしれないし、両方とも合っていたりする。だから本来の道というのは難しい。あるのかないのかさえ分からなかったりするし、見付けても錯覚だったりする。
 すると、道を違えた場合、そこが正解の可能性もある。ただ、いつもの道ではないので、違う道だと感じる。
 そのいつもの道、どうやって決まったのか。それは成り行きでそうなってしまったようなことが多く、意識的に決めたわけではない。他と比べれば妥当とか。他の道よりもましとか。何となく理にかなっているとか、あるいは好ましいとか、その程度のことで決まっていくようなもの。
 判断基準としては弱い。しかし、その道を選んだことになる。これはあの道ではなくこの道と言ったように、合っていそうな雰囲気もあるのだろう。
 ただ、それも確証はないし、全部が全部間違っていたりするかもしれないが。
 岩田は道を行くとき、そういうことを意識した。何故この通り道なのかと。他にもコースはある。時間的にも似たようなもの。
 沿道風景がいいからというのもある。だから好みも入る。また、歩きやすいとかもあるし、陽当たりの問題もある。冬場は陽が当たる道の方がいい。夏は日影が多い道がいい。
 それで、岩田は夏は道を変えている。これははっきりとした理由があるので、説得力がある。ただ、日影のある道は全部が全部ではなく、たまに木陰がある程度。そして距離的には長いので、時間が少しかかる。遠回りのようなもの。
 日影のない夏の道でも、急げば何とかなる。それにその道の方が通りやすく、さっさと行ける。日影のある道で日差しを受ける時間は似たようなものかもしれない。すると説得力を失う。
 暑くても寒くても同じ道を行く。これがいいのかもしれない。しかし、それに拘る必要が果たしてあるのだろうか。勝手に自分で縛っているようなもの。
 どの道を行くのか。どれがいいのかと考えていると、どちらもいいし、何でもいいのではないかと岩田は思えてきた。大した差はないのだ。
 それよりも何処へ向かう道なのかの方が大事だろう。
 
   了

 

 



  


2023年5月21日

 

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