小説 川崎サイト

 

魔が差す

 

 自然な流れと作られた流れがある。
 作られた流れも、自然にそうなるだろうと予測した流れでもあるので、似たようなものだが、作った流れには乗らないといけない。順番のようなもの。
 自然な流れは、何となくの流れで、作為的ではないが、パターンがあるようで、自然とは言え、型がある。
 意外と自然な流れの方が型通りに流れ、ガッチリと作られた流れに近いかもしれない。逆だが。
 作られた流れは、予定通りになるのだが、予定に反し、その結果は、そうならない場合もある。上手くいくはずのコースなのだが、行かないこともある。そうなるはずだと思うのは、ただの目論見であり、希望に近い。そして作られた流れは、そうなるように作られているが、しっかりとしたものではない。
 その場で作ったものではなく、その場で考えたり、思い付いたものではなく、もっと前の段階で決めたことなので、融通が利かない。
 しかし、コースから逸れるとばらけてしまうので、外さない方がいい。
 日常事でも、これから何をやろうかと思ったとき、予定があれば、それに従うことが多いだろう。
 しかし、一つのことが終わり、次のことに移るとき、少しだけ隙間がある。連結部だ。切り替えるとき、それがあるのだが、ここで違うことをやるチャンスもある。まだ次のことを始めていないので。
 または、次のことがまだ決まっていない場合、予定にもない場合、そこで何をやるかだ。
 作られた予定がない場合、自然な流れが生まれることがある。それまでの流れの延長ではなく、次はこれだろうと、その時に生まれることもある。閃きではなく、自然とそうなるだろうという感じのもの。
 その中には今までやらなかったこと、後回しになっていたを選ぶこともあるし、間合い的にはこれだろうというような妥当なものを選ぶこともある。いずれも自然とそう思うというよりも、結構作為している。
 もし、自然な流れがあるのなら、次は何をやろうと考えないままにやっているのだろう。つまり決心などせず、確認などもせず。スーとそれをやっており、やり出してから、やっと気付いたりする。ああ、これをやってみたかったのかと。
 後先考えずにやるのとは違い、自然な妥当性とも言える動きだ。また、意識が先に来るのではなく、ふっとやっている。だが、何をやり始めているのかはすぐに分かるので、事後確認する程度。一応やっていることを明確にするだけ。
 自然な流れとは考えないで実行していることとなると、これは難しい。やはり考えるだろう。だが頭で考えると、どうしても後先のことまで考えるので、それでやめてしまうこともある。
 自然な流れとはそれをやり出しても、抵抗なくできることだろうか。自分の中での突っ込みがない。苦情もない。警告もない。すんなりと流れて行く。
 これを悪い側で言えば魔が差すとなる。
 上手くいけば、いい間が差し込まれたとなる。
 
   了


 


2023年7月10日

 

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