小説 川崎サイト

 

傘が見せてくれた髭面

 

 一寸したことで、予定が狂うことがある。予定だけではなく、その後の動きも。
 柴田は出掛けるため玄関戸を開けたのだが、そこに傘がぶら下がっていた。数日前の雨のとき、戻ってきて、そこにぶら下げたのだろう。それが気になった。あるべきところではないため。
 それで玄関前の傘を玄関内のあるべきところにぶら下げた。ここは傘置き場ではないが、すぐに使う傘を出している。下駄箱にも傘入れが付いているのだが、もう古い傘だ。下駄箱だが下駄は入っていない。
 今は靴入れだが、靴箱とは言いにくい。呼び方はあるのだが呼んだことはない。差しているものは同じ。ゲタバコと音だけで言葉になっているが。
 柴田が傘を仕舞った時間はほんの数秒。一分もかからなかっただろう。ただ、一分遅れで歩きだしたことになる。殆ど変わらない時間。
 それに毎朝同じ時間に出るわけではない。数分の違いや数十分ほど違う日もある。だから傘を仕舞うための一分ほどはあまり関係はない。遅れたと言うほどのロスではない。
 しかし、その先で、一分の違い出た。信号が目の前で黄色くなり、すぐに赤くなった。傘を仕舞わなければ渡れただろう。しかし、この信号に捕まることはよくある。
 それで、そのあと何かが起こるわけではなく、また信号待ちのロスで、その後、影響があったことなどない。そこでの信号は赤でも、次の信号は運よく青だったりする。これでロスは帳消しになったりする。
 しかし、遅くなったとか、早かったとかではなく、その朝の信号待ちのとき、右から声を掛けられた。自転車に乗った髭面の男だ。
 柴田はこの道で声を掛けられたことはない。知っている人を見かけたときは、柴田から声かけしている。しかし、軽く挨拶をする程度で、それ以上のことにはならない。
 今朝は髭面が先に見付けたようだ。しかし、柴田には心当たりがない。髭で顔が変わったためかと思い、名前を聞いてみた。すると、吉田だよ吉田と笑いながら教えてくれた。かなり親しい関係だったようだが、名を聞いても該当する人間はいない。
 学生の頃の先生が吉田だったが、それならかなり年寄りだろう。目の前にいる髭面は柴田と同じ世代。
「じゃあ」と柴田はサッと振り切り、信号が青になるのを待ったが、なかなかならない。
「柴田君は元気そうだね」
 柴田であることを、この髭面は知っている。誰だろうと思っているとき、信号が青になったので、サッと渡った。
 髭面は追ってこなかった。
 その後、この髭面との接触はない。
 傘を仕舞ったロス時間がなければ、髭面との遭遇もなかっただろう。しかし、誰だか分からないのに、相手は柴田のことを知っていた。
 あの傘が見せてくれた何かだろうが、その何かとは何かは分からない。
 
   了
 

 
 


2023年7月21日

 

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