小説 川崎サイト

 

この人

 

「山岡さんはお留守ですか」
 岸田はお隣さんに聞く。
「この時間なら散歩に出ていますよ」
「この暑いのに」
「年中です。この時間。だから、いないと思いますよ。自転車がないでしょ。それで分かります」
「お戻りはいつ頃でしょうか」
「さあ、ずっと見張っているわけじゃないので、分かりませんが二時間ほどでしょ」
「いつ出られたのでしょうか」
「だから、自転車があるかどうかで分かる程度でして、いつ出られたのかまでは分かりませんよ。殆ど決まった時間ですが」
「じゃ、決まった時間に戻ってこられる」
「それも確認したわけじゃないので、はっきりとしたことは言えませんがね」
「何時頃になります」
「さあ、まだ早いでしょ」
「何処から見ておられるのですか」
「まるで見張り番ですなあ」
「はい」
「便所に行ったとき、窓から見えるんですよ。自転車があるか、ないか」
「トイレが近いのですか」
「え、トイレの位置ですか」
「いえ、トイレに立たれる回数が多いのですか」
「いや、手を洗いに行ったりしますよ。それも含めて」
「山岡さんは自転車でどちらへ行かれているのですか」
「知りません」
「自転車で近所を走っておられるのですね」
「さあ、遠くへ行くこともあるでしょ。どちらにしてもそこまでは見ていませんよ」
「行かれる場所が分かっておれば、そこへ行くのですが」
「電話すればいいのに。用事なら」
「山岡さんはスマホを持っていないのです。ケータイも」
「ポケベルを持っていたりしてね」
「もう使えないでしょ。それに、私は持っていませんから」
「緊急ですか」
「はい、急いでいます。すぐにでも連絡したいところです」
「重大な」
「そこそこ」
「連絡が付かなければ大変なことになりますか」
「そこまでは」
「家電話ならあるでしょ。呼び出し音など、たまに聞きますよ。決して聞き耳を立ててお隣さんを監視しているわけじゃありませんがね。聞こえてきますし、話し声も聞こえます」
「山岡さんは一人暮らしでしたよね」
「さあ、よく分かりませんよ。人の家のことは」
「そうですか」
「しかし、何ですか。そこまで聞くほどのことですか」
「いえいえ」
「何の用ですか」
「だから、一寸連絡を取りたいだけです」
「どんな」
「え」
「何の連絡ですか」
「それは、一寸」
「私、色々と山岡さんのことを話しましたよ。それぐらい言ってもいいでしょ」
「それは一寸」
「ああ、いいですよ。私は暇なので、付き合いましたが、これでいいでしょ」
「あ、失礼しました」
「それで、どうされるのですかな」
「出直します」
「あと一時間ほどすれば、戻ってきますよ。その頃に来られては」
「はい、そうします。有り難うございました」
 その後、この人は来なかった。
 
   了


 
 


2023年8月7日

 

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