小説 川崎サイト

 

カタルシス

 

 カタルシスから語る死すを村田は連想する。本来は精神浄化作用。演劇や映画や漫画や小説などでも、ラストにこれがあるかどうかで、かなり違う。
 このカタルシス、いきなりでは駄目で、少し我慢しながら順を追ってみていないと効果がない。
 また、そんな順番ではなく、ワンシーンだけでも感じることがある。それは作り物の世界ではなく、見る人の普段からの鬱積などがタネになっているのだろう。それもまた浄化。
 村田がカタルシスを語る死すと連想するのはただの語呂。漢字で書けば、語る死すと書けないわけではないが、強引。
 我慢劇というのがあり、これは最初からずっと厳しい話で、やられっぱなし。我慢に我慢を重ねているのだが、ついに爆発。だから我慢劇ではない。ラストは大発散。今までの我慢が生きる。
 これは見ている側の話だが、その世界は架空でも、現実と同じように感じている。だからそのまま我慢したまま終わってもいい。最後まで耐えた話として。
 しかし、それでは我慢を見るために我慢しながら見ているわけで、我慢が好きな人だろう。そうではなく、発散を見たいのだ。だから発散させるために我慢しながら見ている。
 日常の中でもそうで、かなり我慢したことほど、効果がある。蓄積、溜が必要なのだ。
 いきなり宝くじが当たっても、驚くだけだが、それでも大金を得たいといつも思っていれば、効果もあるだろうが、積み重ねてきた何かがある方がいい。
 日常にも当てはめると、カタルシスや浄化から離れてしまうが、何らかの我慢の蓄積があると、それを果たした瞬間、カタルシスを味わえる。果たして浄化と言えるかどうかは分からない。より汚れたものが増えたりして。
 つまらないことでもずっと続けてやるのも、何処かで開花するかもしれないからだ。いきなり咲くよりも効果は大きい。これは浄化ではなく昇華に近いが、どちらにしても気持ちよくなると言うことだろう。スッキリするとか。このスッキリが浄化。
 村田は語る死すと縁起の悪い連想をするが、語るに落ちたと勘違いしているのだろう。
 
   了
 


2023年9月1日

 

小説 川崎サイト